英国では、テリーザ・メイ首相の予想外の総選挙敗北から約2カ月半が経とうとしている。
6月29日、保守党の施政方針が英国下院で可決された。メイ首相は総選挙で10議席を獲得した民主統一党 (DUP)との閣外協力を経てようやく少数与党政権樹立に至ったものの、英国のEU(欧州連合)離脱=ブレグジットを巡る状況は選挙前とは一変した。
保守党内では、メイ首相のリーダーシップに対する不満がくすぶり続けている。一方、野党第一党の労働党は勢いを取り戻し、保守党への攻勢を強めている。EU離脱に向けて、英国内が一枚岩になっているとはとても言えない状況だ。
混乱する政治情勢の下、頭を抱えているのが英国に拠点を置く国際企業だ。英国のEU離脱に向けた道筋がますます不透明になり、将来の事業戦略を描くのが一層困難になっている。特に金融機関は、その悩みが深い。現在EU加盟国である英国の金融規制は、当然ながらEUと同じ。英国としては、離脱後も英国で認可された金融機関がEU単一市場へのアクセス(金融パスポート)を得ることが、ブレグジット後に考えられる最良な方法と主張している。
しかし、メイ首相は、単一パスポートなどよりも、移民の管理を優先する「ハード・ブレグジット」路線を主張していた。メイ首相の強硬な姿勢はEU側の反発を招き、離脱後は英国の金融機関の単一パスポートは失効する可能性が高い。このため、ロンドンの金融街、シティに拠点を置く金融機関の多くが、2017年第3四半期ごろまでにロンドンから他のEU加盟国の金融都市に拠点・事業を移転するか否かの決断をすると見られていた。
既に欧州での移転先も集約されつつあり、(1)アムステルダム、(2)ダブリン、(3)パリ、(4)フランクフルト、(5)マドリードなどが主要候補として検討されていた。この他米国や香港、シンガポールに移転するケースも想定されている。
ロンドンからの金融機関の移転候補先
(出所)http://www.d-maps.com/、各種報道により大和総研作成
ところが、今回の総選挙で強硬離脱を主張していた保守党が敗北したことで、メイ首相は従来のハード路線を修正せざるを得なくなっている。単一パスポートを巡る判断も、軟化されるのではないかとの期待が高まっていた。
ソフト・ブレグジットになれば、当初の想定よりEUへの移動規模を少なくできる可能性がある。金融機関関係者の多くは、政府の姿勢が変化したのかを注意深く見守っていた。
そのような中、6月20日、ハモンド財務相が講演し、金融街シティにおけるブレグジット後の影響について、総選挙後初めて言及した。講演でハモンド財務相は、英国にある金融機関が、ブレグジット後も単一市場への良好なアクセス維持のための3原則を提案していると述べた。
英政府、金融機関の期待に応えず
すなわち、(1)英国・EU間のクロスボーダー取引の規制要件を定める新プロセスを設定すること、(2)金融安定性を優先させ、英国・EU双方で協調的かつタイムリーなリスク管理を可能にすること、(3)これらの枠組みが、永続的かつ企業にとって信頼に足るものであることである。
政府が金融機関にどのようなメッセージを送るかが注目された講演だったが、結果的にはシティの金融機関がEU加盟国への移動を思い留まるほど、具体性がある内容ではなかった。このため、シティの金融機関関係者の多くは、単一市場へのアクセス(パスポート制)の維持はすでに絶望的であり、シティでは、強硬離脱に備えて事業移転準備を整えている機関が多い。そもそもソフト・ブレグジットという定義自体が英国側の一方的主張にすぎず、EU側にその概念が存在しないという事実が認識されつつある。
では、今後の金融機関の動きはどうなるだろうか。
仮にソフト・ブレグジットの可能性が高まったとしても、実現はより複雑で実効性も懐疑され、シティからの業務移転計画を変更するまでに至らないと筆者は見ている。既に多くの金融機関が、英国がEUを正式に離脱する2019年3月に間に合うよう、2018年夏ごろまでには移転先での業務開始に向け準備を開始し、バンカーおよびバックオフィスのスタッフのロンドンからの移動を予定しているようだ。
最終的なロンドンからの移動規模は、同様にロンドンからの移動が予定されている欧州銀行監督局の新拠点場所などに依存するだろう。40万人といわれるシティの金融機関関係者がどれくらい移動するかは今のところ、分からない。EU拠点は、加盟国における顧客へのセールスを担うことが主眼で、投資銀行業務の大半はロンドンに残留させる見通しを示している金融機関も多い。
ただし、ユーロ建て取引の清算機関がEUに移転する場合は、大規模な移動が生じる可能性がある。
ロンドンは、全世界におけるユーロ建てデリバティブ商品清算の4分の3を担っており、ブレグジット以降、EU域外国となる英国で清算の大半が行われることをECBは問題視している。ECBは以前から清算機関の運営に支障が生じた場合、ユーロ圏内の決済システムに多大な影響を与える可能性があるため、ユーロ建て取引を多く行う清算機関は、ユーロ圏内に拠点を置くべきとする「拠点政策」を主張している。
欧州委員会は5月4日に発表した通達案で、EUにとって非常に重要な資本市場機能を提供する清算機関が、EU域外に存在する場合に、客観的な基準に基づく監督が必要と記している。
裏を返せば、EU加盟国内での直接的な監督が望ましいことを意味する。その背景には、英国がEU離脱後、2008年のグローバル金融危機を受けて、G20は「プレーンバニラ」等の店頭(OTC)デリバティブ商品については、中央清算機関(クリアリングハウス)による清算を義務づけた。
シティが引き続き覇権を握るかは清算機関次第
この決定を受け、2016年までに、世界の店頭デリバティブ市場(544兆ドル)の6割以上がクリアリングハウスで清算されるようになった。なかでもロンドンに拠点を置くクリアリングハウスへの世界各国の金融機関からの支持は著しく、ロンドン証券取引所(LSE)の子会社であるLCHクリアネットは、全通貨における金利スワップの過半数を処理しているとされる。
無論、英中央銀行のイングランド銀行(BOE)のカーニー総裁は清算機関のロンドンからの移転は清算活動の細分化につながるとし、反対を表明している。清算システムの移動は、莫大なコストが掛かり、欧州経済にとってもメリットは乏しく、現実的ではないというのがその理由のひとつだ。
ただ、ECBのドラギ総裁は、ユーロ建て取引の多くが英国金融街のシティで行われている現状を快く思わない発言を繰り返しており、最終的にどのような政治的プレッシャーをかけてくるかは読み切れない。
確かに、仮に日本円建てのデリバティブ取引の清算のほとんどが、実はシンガポールや香港で行われていましたということになると、日銀の黒田総裁といえども「通貨・円」に対する金融安定性に過大なリスクがあると判断する可能性は高いだろう。他国での清算集中を嫌い、監督・管理の問題や、円滑な金融政策の実施が出来ないことなどを理由に「拠点政策」という介入に入る可能性もゼロとはいえない。
ECBの本拠地があるフランクフルトにとっても、清算機関の大規模移転は新たな金融街としての覇権を握る絶好の好機と映る。6月23日には、その追い打ちをかけるようにECB理事会が一連の「拠点政策」を支持する形で、欧州中央銀行制度に関する議定書(第22条)の改正が勧告された。この改正が実施されれば、ECBおよびユーロシステムが金融政策や決済システム、ユーロの安定に影響を与える可能性のある清算機関に対し、強制的にその活動に関連するリスク等を監視することが可能となる。
すなわち、この改正案により、ECB(やユーロシステム)には清算機関に対する明確な法的能力が付与され、清算機関に対する監督権限の行使が可能となる。著しい量のユーロ建て取引が行われる第三国の清算機関、すなわち、ブレグジット後にユーロ建て取引の大部分を担うロンドンの清算機関に対しても厳格な監督が必要となり、強制的な管理が実施されることを示唆している。
この発表以降、ECBのクーレ理事は、EU域外国で自国通貨ユーロに対する金融安定性に過大なリスクを及ぼす様な(一極集中の)清算機関を認めないとし、最終的にEU拠点内への(清算機関の)移動を推奨している。
ただ、この一連の「拠点政策」に対し、最初に公の場で異を唱えたのは、意外にも英国ではなく、米国だった。
最大の被害者は米国のヘッジファンド?
米国商品先物取引委員会(CFTC)のジャンカルロ委員長は、今年5月のISDA(国際スワップ・デリバティブ協会)の会合に出席した際、欧州委員会の「拠点政策」に対して痛烈に批判している。ジャンカルロ委員長は、この「拠点政策」が書かれた通達案に対して、このような行為がまかり通るのであれば、世界的規範に反するものであり、米国側も報復措置を取る可能性があると発言した。
米国規制当局はユーロ建て清算機関のユーロ圏内への移転に対しては一貫して反対しており、移転政策に伴いユーロ建て取引の商品をより複雑でかつ余分なコストがかかるものにすると主張している。
一連のECBおよび欧州委員会の「拠点政策」は、米国をターゲットとしたものではない。むしろロンドンから米国に清算機関が移るかもしれない(実は米国は、EUと立場が同じであり、ドル建ての金利スワップの清算は、90%以上がロンドンで行われている)。
ではなぜ米国が、この「拠点政策」が推し進められると不都合であるかというと、そこには米国のヘッジファンド等の(オルタナティブ投資)運用機関にそのヒントが隠されている。
米国では、米国顧客が取引する(自国通貨である)ドル建て金融商品の清算機関に対し、米国の監督機関に直接登録することを求めている。ここで当該清算機関の拠点が米国外であってもこの方針は変わらない。このためロンドンのLCHクリアネットなどは、既にCFTCに登録し、米国内の清算機関と同様に定期的な検査の対象となっている。
裏を返せば、CFTCに登録し監督を受けさえすれば、清算機関の場所はどこの国でも可能としている。いうなれば米国のヘッジファンド等の顧客は、ロンドンの清算機関を利用した、(取引の実態が他国にあっても帳簿は自国にある)バックトゥバックの取引を既に行っていることとなる。
このため、英国がEUを離脱しても現状に何ら影響を与えることはない。同様にEUは「拠点政策」などは止めて、米国と同じスタイルの監督方法を選択すれば、英国がEUを離脱しても現状の取引に何ら影響はない。そうすれば、米国に拠点を置くグローバルマクロ戦略等はユーロ建てだろうがドル建てだろうが、米国からロンドンの清算機関を利用して取引を今と変わらず継続することができる。
仮にEUの「拠点政策」が実行されれば、(ヘッジファンドを含めた)世界中のオルタナティブ投資運用機関の約6割の拠点が集中すると言われる米国への影響は甚大である。ヘッジファンドにとって、新たな清算機関の利用などは当然ながら無用の長物であり、「コスト・手間」ともになるべく避けたいと願っているのは当然であろう。
リーマン・ショック以降、金融機関に対するデリバティブのリスク管理の一環として始まったこのOTCデリバティブの中央清算機関の義務付け政策ではあるが、当時から、新たな規制の適用対象となるヘッジファンド等からの苦言は多かった。
かつて、筆者が懇意にしていたヘッジファンドと雑談交じりに話していた際、「(清算機関に通したら)自身の投資ポジションを明かさなければいけないなんて有りえない」「余計なコストが掛かる」など、開始当初からすこぶる評判が悪かったのを覚えている。無論、EU内に移動させられた清算機関が、今より安いコストで取引できる保証など無いことは、容易に想像できる。
「拠点政策」で、清算機関がユーロ圏内への移動を余儀なくされた場合、その清算機関を利用していた金融機関も(コストや使い勝手、ECBが将来的にはバックトゥバック取引を認めないなどを理由に)、EU内へ移動する必要が出てくる可能性は低くない。
穿った見方をすると、この「拠点政策」は、ブレグジットを契機に、EUパスポートが失効したとしても大きな影響がないとされていた(拠点移動が必要無いとされていた)ヘッジファンド等の投機筋が無理矢理移動させられることとなり、金融街シティにとっては大きな損失につながる可能性も出てきている。
ロンドンの高級住宅地であるメイフェアー近辺に拠点を構え、ロンドンで家族も含めて安泰と思っていたヘッジファンドマネジャー達にとっても好ましくない結果となる。仮にそうなった場合は、金融街シティからどれだけの人数がユーロ圏内に移動するかは想像がつかない。当然、米国のヘッジファンドにも同じことがいえる。
現段階では、ECBの勧告の影響がどの程度まで拡大するかは不明であるが、想定以上の移動が伴うとなると、ブレグジットで大きな影響がないとタカをくくっていた運用機関の関係者達もその状況から目が離せなくなってくる。果たして、その余波は米国のヘッジファンドまで波及するろうか。
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