桶狭間に勝利したことで一気に「天下布武」に乗り出した信長同様、曹操もまた官渡の勝利を契機として一気にナンバー1勢力となりましたが、このころのナンバー2・ナンバー3勢力は、呉を建国することになる孫権でもなければ、ましてや、蜀を建国する劉備でもありません。益州の劉璋(?年~219年)、荊州の劉表(?年~208年)でした。

 しかし、それだけの勢力を擁しながら、彼らが天下に名乗りを挙げることはついになく、劉表などは日々曹操から受ける圧力が高まっていき、いよいよ結束が求められる中で、劉琦(長子)と劉琮(次子)との「お家騒動」が勃発、そうした政治的混乱の中で曹操軍に攻め立てられて潰えていくことになりました。

晩年に「老害」をまき散らして国を混乱させた、孫権の場合

 さらには、三国の一翼を担った呉の初代皇帝、孫権(182~252年)。若いころには「名君」などと褒めそやされることもあった彼ですが、ライバル国である蜀の軍師・諸葛亮(181~234年)が亡くなったころから急速に耄碌(もうろく)が進み、晩年は単なる「老害」と化して国を引っかき回すことになります。

呉の初代皇帝・孫権(182~252年)像。江蘇省・南京の「孫権紀念館」にある。(写真:PIXTA)
呉の初代皇帝・孫権(182~252年)像。江蘇省・南京の「孫権紀念館」にある。(写真:PIXTA)

 孫権の嫡男・孫登が亡くなると、孫和(三男)を皇太子に据えながらすぐに翻意し、その弟の孫覇(四男)を皇太子のように扱いはじめたのです。

 こんなことをすれば「お家騒動」になることは火を見るより明らか。たちまち宮廷では「孫和派」「孫覇派」の真っ二つに分かれての政争が始まり(二宮事件)、呉は内訌(内紛)によって忠臣・賢臣が次々と処刑・憤死・誅殺されていき、ガタガタになっていきます。

 ところが、その元凶たる孫権はそうした混乱もどこ吹く風、今度は孫和を廃嫡し、孫覇を賜死(死刑)し、末っ子(七男)の孫亮を立太子するなど、呉をめちゃくちゃに引っかき回すだけ引っかき回したあと、尻ぬぐいもせずにまもなく亡くなりました。

 この時点でもはや呉は“詰んだ”と言ってよく、かつてはあの「赤壁の戦」(後漢末期の208年、長江の赤壁で起こった曹操軍と、孫権・劉備連合軍との間の戦い。連合軍が勝利した)で自称80万の曹操の大軍を打ち破った呉でありながら、まもなく到来した晋軍を前にして抵抗らしい抵抗もできぬまま、あっけなく滅亡してしまいます。

 西暦280年、ここに三国はことごとく晋に帰し、96年間にわたってつづいた「三國志」は終焉を迎えました。

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