三國志の序盤において覇を唱えたのが、中国後漢末期の悪名高き武将・董卓(とうたく、?年~192年)ですが、彼が歴史の波に消えていったあと、次に強勢を誇ったのが袁紹(?年~202年)でした。

 袁紹といえば、4代にわたって三公(当時の最高官職)を輩出した名門の家柄のうえ、当時、河北4州(冀州・青州・幷州・幽州)を押さえたナンバー1の実力者です。名も実も備え、まさに“天下餅(天下統一)”は彼の目の前に転がっていたにもかかわらず、それは袁紹の手をスルリとすり抜け、まもなく袁氏は滅亡することになります。

 袁氏の滅亡の原因を、巷間ドラマ仕立てに、魏の基礎をつくった武将・曹操(155~220年)と袁紹との間で行われた「官渡の戦」(200年)による敗戦に求めることが多いのですが、じつは違います。

 確かに官渡での敗戦後、彼の力を侮った者たちが各地で叛乱を起こしたため、一時的にその統制力は弛緩しましたが、袁紹はこうした敗戦後の叛乱をことごとく平定し、見事に秩序を回復しています。また国力の差がありすぎて、曹操もこうした袁紹の動揺を突くだけの余力もありませんでした。

 「官渡」は、いわば太平洋戦争における「真珠湾」のようなもので、大敗はしたものの、両国の元々の地力に差がありすぎて大勢に影響はなかったのです。

 袁氏滅亡のほんとうの原因は「お家騒動」です。袁紹が亡くなった後、その後継者の地位を巡って袁譚(長子)・袁煕(次子)・袁尚(末子)が相争ったため、そこを曹操に各個撃破されて亡んでしまったのでした。もし、袁家に「お家騒動」が起こっていなかったら、官渡の戦後も袁氏はビクともしていなかったことでしょう。

「お家騒動」の中で曹操に攻められ衰えた、劉表の場合

 こうして袁氏は滅亡、その支配地域の河北4州は曹操によって併呑(へいどん)され、ついこの間まで弱小勢力だった曹操が一躍天下に名乗りを挙げる一因となりました。

魏の基礎を作った曹操(155~220年)像。湖北省洪湖市の「烏林曹公祠」にあるもの。(写真:PIXTA)
魏の基礎を作った曹操(155~220年)像。湖北省洪湖市の「烏林曹公祠」にあるもの。(写真:PIXTA)

 これは、織田信長が桶狭間で今川義元を破った時と似ています。天下をも狙える力のあった今川義元(「三國志」では袁紹に相当:以下同)が隣国の小大名・織田信長(曹操)に桶狭間(官渡)で大敗したとはいえ、今川はその敗戦そのものでただちに滅亡したわけではありません。

 しかし、家督を継いだ今川氏真(袁尚)は、敗戦後の領内動揺を抑えることができず、その後の相次ぐ不始末により今川は急速に衰退し亡んでいくことになりました。

 ほんとうに「歴史は繰り返す」とはよく言ったものです。

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