凡人も天才も「能力値」の総計はおなじ

 つまり、人は「歴史に名を残すような偉大な天才」も、「どこにでもいる凡人」も、この世に生を受けたときに神から与えられた「能力値」の総計はおなじ(1万ポイント)であって、そこに不公平はまったくありません。ということは、もしあなたが「他の人ができることは何でもソツなくこなすことができる」というならば、その代償として「他の人よりズバ抜けた才能もない」ことを意味します。

 しかし、嘆くこともありません。特別に人より劣ったところもまたないわけですし、望むなら、特定の才について「努力」を積み重ねれば、能力値を少しだけ上げることもできます。

 一方、もしあなた(またはあなたの子供)が「周りの人がふつうにできることが、全然できない」としても、これまた嘆くことはありません。できないことが多ければ多いほど、なんらかの才能に抜きんでているに違いないからです。

 それを見つけることができた者だけが、周りの人から「天才」と絶讃され、できなかった者は、「役立たず」「ダメ人間」「変人」と誹(そし)られることになります。

中国古代の王朝「斉」の始祖、太公望の場合

 つまり。

 「天才となんとかは紙一重」といいますが、「天才」は凡人の中にではなく、世間的に「無能」「変人」「役立たず」と蔑(さげす)まれている者の中に紛れているのです。

 昔むかし、今から3000年以上も前の中国において、呂尚(りょしょう、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖)なる人物がいました。彼は、若い頃こそ諸国を回っていたものの、やがて西の辺境へ流れ着いてここに腰を据えると、ろくに働くでもなく日がな一日、明けても暮れても好きな釣に興じるばかり。さしずめ今でいうところの「ニート」といったところ。

 彼の奥さんもさすがに堪忍袋の緒が切れ、啖呵(たんか)を切ります。
 「このろくでなし! 毎日毎日働きもしないで! もう私ゃ我慢できないよ! 別れてもらいます!」

 しかし、それでも呂尚は生活を悔い改めるでもなく毎日毎日、釣三昧。