厳しい試練を乗り越えられなければ「成人として認めない」

 こうした「成人意識」を植え付けさせるため、国によっては、厳しい試練を乗り越えられなければ「成人として認めない」ということすらあるのです。

 南太平洋のバヌアツで通過儀礼として行われてきた「バンジージャンプ」は今や世界中に知られるほど有名になりましたが、本来は、今日のような安全が保証された衝撃の少ないゴムではなく、蔦(つた)を編んだだけのもので行いますから、蔦が長すぎたり、切れたり、外れたりして死者も出る危険なものでした。

バヌアツ共和国ペンテコスト島で行われているバンジージャンプ(ランドダイブ)。危険なのは今も変わらない。(写真:PIXTA)

 南米ブラジルの先住民族の通過儀礼では、毒アリを集めた袋に手を突っ込み、24時間の激痛と発熱に耐えなければなりませんでした。

 アフリカのタンザニアでは成人になるための通過儀礼としてライオン狩りをやらされ、南太平洋のパプアニューギニアではサメ狩りをやらされ、文字通り命懸けです。

 こうした風習を「未開」や「野蛮」といった言葉で片づけようとする人が少なくありませんが、じつはそうではありません。それらの社会においては、一人前の大人として生きていくこと自体がすさまじい“試練そのもの”であるため、「この程度の試練も乗り越えられぬようでは大人として生きていけない」ということを自覚させる意味があります。言い換えれば、そこまでの試練を与えなければ、精神的に子供である者に「大人の自覚を持たせる」ことが難しい、ということを物語ってもいます。

 試練を与えるわけでもなく、(かつての「元服」とは異なり)名前や髪型、まわりの大人の態度──すべて何ひとつ変わらぬ日々がつづく現代の「成人式」に、「大人の自覚を持たせる」効果を期待する方が、間違っていると言えましょう。

封建時代の中国と比べて、圧倒的に精神年齢の低い現代の若者

 とはいえ、近年どんどん精神年齢が低下していることは、否めない事実でしょう。昔の人の精神年齢の高さを物語る逸話として、歴史をひもとけば封建時代の中国の古典でこんな話があります。

 まだ年端もいかない子供が寝ていた深夜、隣の部屋からボソボソと押し殺したような声で話す父親の声が聞こえてくる。この声に目が覚めてしまった息子が襖(ふすま)の隙間から様子を窺うと、父親が見知らぬ怪しい人物と深刻そうな話をしている。

 耳をすまして聞き入っていると、なんとそれは国家転覆計画の密談。たいへんなことを聞いてしまったと、すぐに布団にもぐるも、その気配を父親が感じます。

 ── シッ! まずい! 息子に聞かれたかもしれん!

 そう言って、父親は息子の部屋に向かいます。

 クーデター計画を聞いた者は、誰であろうと殺す。たとえそれが、年端もいかぬ我が子であったとしてもです。

 これを現代の価値観に照らして、一概に「ひどい」「残酷」と片づけることは必ずしもできません。子供はどんなに口止めをしても不意に秘密を漏らしてしまうかもしれませんし、政敵にさらわれて拷問を受ければひとたまりもないでしょう。

 封建時代の中国においては、クーデターが失敗に終われば、「族滅(族誅)」といって本人だけでなく、一族郎党皆殺しの目にあいましたから、我が子ひとりの命を惜しむわけにはいかない、厳しい時代背景があったのです。父親は夜叉(やしゃ)のような形相でゆっくりと襖を開け、子の布団を剝がします。

 ところが、父親は寝(たフリをし)ている我が子を見て、こわばった顔が一気に弛みました。そして戻ってきた父親は、密談していた相手に話します。

── だいじょうぶだ。間違いなく寝ていた。

 なぜ父親はそう考えたのか。けっして情にほだされて殺すのをためらったわけではありません。本当に寝ていると判断したのです。

 なぜか。

 じつはこれより以前、この子はしばしば夜中に眠りながら嘔吐し、朝になって嘔吐物まみれになっているのに、本人はまったくその記憶がないということがありました。

── 殺される!!

 そう思った息子は、かつての経験を思いだし、必死で指を喉の奥に突っ込み、わざと嘔吐物まみれになって寝ているように見せかけたのです。嘔吐物にまみれて寝ている我が子を見て、父親は寝ていると信じた(騙された)わけです。昔の子供は、そこまでやったという逸話です。現代の子供ができる芸当ではありません。