(写真=PIXTA)
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 あなたも管理職なら、いつも部下のことに心を砕いているでしょう。折りに触れて仕事上のアドバイスを与えて成長を促し、また時々酒など飲んでコミュニケーションの円滑化を図ったり、ボーナスの査定時期になれば自分の手柄を譲ってやったりして、彼や彼女のモチベーションが高く維持できるようにと日々努めておられるでしょう。大変結構なことです。管理職はあらゆる手段を講じて部下を教育し、また鼓舞し続けなくてはならない。

 しかしあなたはある日、ふとこう気づきます。「自分は部下からはあまり尊敬されていないようだ。いつもこんなに目をかけてやっているのに」と。しかしこれは、部下が鈍いとか恩知らずだとかいう筋のものではありません。部下が恩義を「感じるように」ふるまわないあなたが悪いのです。「こんなに気遣いをし、よくしてやっているのに」なんて考えは捨ててください。そんなことでやきもきしていたら、無駄なストレスがたまるだけです。

 では、「(恩義を)感じるように」ふるまうとはどういうことでしょうか。

 ちょっと個人的な昔話をさせてください。もう7~8年も前、娘が大学に入学するときのことです。諸々の手続きをする最中、私は娘を呼んで入学金と初年度授業料を直接手渡し、こう命じました。「自分で支払いの手続きをしなさい」。娘は驚いた顔で私を見ました。それはそうでしょう。なにしろつい昨日までは高校生、これまで一万円札にすらめったに触れたことのなかったものが、いきなり何百万円になんなんとする大金を渡されたのですから。

 しかし娘は、自分のために親がそれだけのお金を用意したことの重みを、まさに物理的な重みでもって実感したと思います。いつもは妻とともに「キャバクラおやじ」とか「飲んだくれ」とか「ギャンブル狂」とか、罵詈(ばり)雑言で私をなじっていた娘が、このときばかりは神妙な面持ちで「お父さん、どうもありがとうございました」と言いました。親が娘の目の届かぬところで授業料を振り込んでいたら、こうはならなかったはずです。

 いや、もちろん「入学金と授業料、払っておいたぞ」と伝えれば、いかな我が豚児とて感謝の言葉くらいは口にするでしょう。ですが、大学入学という人生の大きな節目にあたり、親がただ振り込みをしてしまっては「安からぬ学費を払ってもらった」という重みは娘には伝わらない。この「重み」の有る無しでは、同じ「ありがとう」でもその意味するところはおのずと違ってくることは明らかです。

「忖度」や「惻隠の情」を求めるのは無意味

 こういうやりかた、つまり「現金」の物理的な重さを感じさせるのは、一番わかりやすい・伝わりやすい「形」です。が、それを日常業務の中でやるのは少々非現実的です。ですがご心配は無用です。つまりはいって聞かせるとか見て理解させるとか、五感に訴える所作を伴えばいいのです。工夫ひとつでいくらでもそういう機会をつくることができます。

 あなたの部下がお客様の前で失敗して、クレームに発展した。お怒りの電話がかかってきて、当の部下も「もう隠し通せない」と観念して蒼ざめている。さあ、目に見える形で恩が売ることができるチャンスの到来です。あなたの度量の広さを見せてください。「じゃあ一緒に謝りに行こうか」。

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