夏につきものの怪談。その中に、恨みが募って鬼と化した女性が、草木も眠る丑三つ時に恐ろしい形相で藁人形に釘を打ち付ける話があるのをご存じでしょうか。
この話に語られているのは「丑の刻参り」という呪術で、長い間、日本人が密かに恨みを晴らす代表的な儀式とされてきました。京都府宇治市の宇治橋に伝わる「宇治の橋姫伝説」が原型と言われており、それだけに「宇治の橋姫」は恐ろしい鬼として語り継がれてきました。
しかし、改めて調べてみると「宇治の橋姫」が鬼になったのは鎌倉時代のことで、平安時代の末までは鬼どころか、愛しい恋人の例えだったことがわかりました。源氏物語の宇治十帖「橋姫」のタイトルには「京の都から離れた宇治に暮らす愛しい恋人」の意味が込められていると言われます。

それがどうして恐ろしい鬼になったのでしょうか。なんだかすごい秘話が隠れている気がします。さっそく宇治橋へ行ってきました。
「宇治橋」を守る女神

京阪電車「宇治駅」を降りると、すぐ目の前に宇治橋が見えます。橋のたもとには能や狂言、吉川英治の小説「宮本武蔵」にも登場する茶店「通圓」があって、ゆったりと流れる宇治川とともに、歴史と自然が織り重なったような独特の雰囲気を醸しています。
宇治橋は646年(大化2年)に架けられたとされる橋です。「宇治の橋姫」はもともと宇治橋を守る女神で、橋姫を祭る「橋姫神社」が宇治橋を渡って徒歩5分ほどの所に鎮座しています。
橋姫神社の説明看板によると、ご祭神は神道の大祓詞に登場する神「瀬織津比咩(せおりつひめ)」だそうです。瀬織津比咩(姫)は天照大神と深い関係にあるといわれる水の神で、「橋姫」と同一視されてきたと考えても良いでしょう。さらに「交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています」と書かれており、恐ろしい「橋姫伝説」については一切、触れられていません。
ただ、源氏物語宇治十帖「橋姫」の古跡と紹介されていたので、まずは源氏物語と橋姫がどのような関係があるのか探ってみました。
すると源氏物語の「橋姫」は、この和歌にちなんだものだとわかりました。
橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる
(橋姫のような淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 私も涙で袖を濡らしております)
これは、源氏物語の薫が宇治に住む姫君たちに送った和歌です。これにちなんでタイトルが「橋姫」になったのだそうです。調べてみると、平安時代初期に編纂された「古今和歌集」に収録されている、詠み人知らずの和歌がベースになっていることがわかりました。
京の都から離れて住む恋人

さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫
(寒い所に衣を敷いて 今夜も私を待っているのだろうか 宇治に住む恋人は)
この和歌の「宇治の橋姫」は、京の都から離れた宇治に住む恋人を例えたものと解釈されており、この歌を元に、宇治の方に住む女性 (特に思いを寄せる恋人)を「宇治の橋姫」と例えて詠まれるようになったそうです。
それで源氏物語の薫も、宇治に住む姫君たちを「宇治の橋姫」に例えたというわけです。
つまり、「宇治の橋姫」はもともと、宇治橋の守り神であるとともに「京の都から離れた宇治に住む恋人」だったということです。
それがいつから、恐ろしい鬼になったのでしょうか。
さらに調べると、橋姫を鬼にしたのは、鎌倉時代に書かれた「平家物語」であることがわかりました。しかも「平家物語」そのものではなく、読み物として編纂された異本の「源平盛衰記」などに収録されている「剣巻」に登場しているのです。
次の書き出しで始まります。
嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。
(日本文学電子図書館: 平家物語 剣巻 より抜粋)
現代語に訳すると以下のようになります。
嵯峨天皇の世に、ある公卿の娘が深く嫉妬して、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神
よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を殺したいのです」と祈った。哀れに思った明神は「本当に鬼になりたいのなら、姿を変えて宇治川に37日間浸れ」と告げた。
腕を斬られて退治された

この後、公卿の娘は、髪を5つに分けて5本の角にし、顔に朱をさし体に丹を塗って全身を赤くしました。鉄輪を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえて鬼の姿になって、宇治川に37日間(21日という説もあります)浸り、貴船大明神の言ったとおり鬼になりました。これが「宇治の橋姫」だと書かれています。
鬼になった「宇治の橋姫」は妬んでいた女はもちろん、その親族や縁者を次々と殺したため、京の都では夕方になると橋姫を恐れて外出しなくなりました。しかし、源頼光の四天王の1人、源綱が一条大宮に遣わされた際、「橋姫が危ないから」と名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり出かけたところ、橋姫が襲ってきたので腕を斬り、退治したと物語は続いています。
なんとも酷い話です。こんな逸話で「宇治の橋姫」は鬼にされてしまったのですから。
しかしなぜ平家物語の異本がそんな話を載せたのでしょうか。もしかしたらこの時代に、平氏が鬼の仕業にしたくなるような出来事が宇治で起こったのかもしれません。だから、こんな逸話に例えたと考えれば辻褄があいます。
そう思って調べると、案の定ありました。平安時代末期、なんとなく「宇治の橋姫」の話と重なる「宇治川の戦い」が起こっていたのです。しかも、源氏同士の戦いでした。
「宇治川の戦い」は1184年(寿永3年)に起こった「治承・寿永の乱」のひとつです。源義仲(木曽義仲)を倒すために源義経らが宇治川で戦った合戦で、源氏の内乱そのものです。
どんな戦いだったのか、簡単にまとめてみました。
信濃源氏に源義仲という源頼朝と義経の従兄弟にあたる武将がいました。義仲は1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子・以仁王による平氏打倒の令旨によって挙兵し、3年後の1183年(寿永2年)に入京しました。しかし様々なことで後白河法皇と対立し、後白河法皇は義仲を見放して源頼朝に接近します。
「宇治川の戦い」はその翌年1184年(寿永3年)、源頼朝が義経たちに義仲討伐を命じたことから勃発し、義仲は義経らに敗れ、自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込みましたが、“顔面を矢で射抜かれて”討ち死にしました(粟津の戦い)。
源氏の内乱「宇治川の戦い」平氏から見れば
後白河法皇に見捨てられた義仲が、法王と対立して従兄弟に討たれる経緯は、嫉妬して鬼と化し、源綱に退治される「宇治の橋姫」の話と、どことなく重ります。また、最後に顔を射抜かれて死んだ義仲は、鬼のように恐ろしい形相だったに違いありません。
そんな「宇治川の戦い」は、平氏から見ると、憎き源氏のおもしろい内乱に見えたことでしょう。しかも源氏の中心人物である頼朝や義経が深く関わっています。源義仲を「嫉妬に狂った鬼女」に例えて茶化してみたくなったとしても不思議ではありません。
また、物語の冒頭「嵯峨天皇の御世に」の書き出しからも源氏の物語なのではないかと窺えます。嵯峨天皇は源氏の祖先で、義仲も頼朝も義経も嵯峨天皇の血を受け継いでいるからです。「嵯峨天皇の御世に」は、源氏の内乱を暗示していると考えられなくもありません。
もちろん、平家物語の剣巻に描かれた「宇治の橋姫」が、源義仲を比喩した物語だという説は私が勝手に想像しているだけで、歴史的に証明されている話ではありません。
ただ、平安時代まで、源氏物語のタイトルになるほど“京の都から離れた宇治に住む恋人”とされていた「宇治の橋姫」が、平家物語でいきなり鬼になり、そのまま現代に語り継がれているのは事実です。なんだか「宇治の橋姫」が可哀想になってきました。
鎌倉時代から約800年もの間、人々が信じてきた物語を変えることはできません。しかし次の800年に向けて、少しずつでも経緯を知る人が増えれば「宇治の橋姫」のイメージは変わっていくでしょう。まずはこのコラムを「宇治の橋姫」に捧げたいと思います。
◆参考資料
橋姫神社 説明看板
日本文学電子図書館: 平家物語 剣巻
京都府宇治市観光公式サイト など
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