後水尾上皇は知っていた?

 しかし、後水尾天皇はこれを無視し、幕府に断りなく十数人の僧侶に紫衣を授けたため、時の将軍・徳川家光は京都所司代の板倉重宗にその没収を命じました。これに大徳寺住職・沢庵宗彭ら高僧が反発し流罪に処されたことは有名です。高僧らは二代将軍・徳川秀忠の死による大赦免で赦されましたが、この「紫衣事件」は朝廷より江戸幕府の力が大きいことを世に示すキッカケになったと言われています。

 幕府を許すことができない後水尾天皇は、1629年(寛永6年)11月8日、幕府へ何の断りもなく次女の興子内親王(明正天皇)に譲位し、後水尾上皇としてみずから院政を始めました。これに徳川幕府が黙っている訳ありません。結局1634年(寛永11年)将軍・徳川家光の上洛をきっかけに上皇の院政を認めましたが、その後も後水尾上皇(後に法皇)と幕府との確執が続いていたのです。

 つまり、「詩仙堂」が建てられた1641年(寛永18年)、幕府と朝廷の関係はギクシャクしていたということです。幕府は上皇の動向が気になって仕方なかったでしょう。丈山にスパイを命じても不思議ではありません。しかも「詩仙堂」が建てられた一乗寺からは当時、京都の町はもとより大坂城も見渡せたそうです。スパイを忍ばせるには絶好の場所だったのです。

 しかし、後水尾上皇はこれを見抜いていたかのようなエピソードが伝わっています。後水尾上皇から丈山にお召しがあったというのです。スパイが本当なら丈山はさぞ驚いたことでしょう。次の詩を送って断っています。

「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波たつ影は恥かし」

 この詩は「お召しは嬉しいのですが、もう老人なので、恥ずかしくてお会いできません」といった意味に受け取れます。

 これに対して、後水尾上皇は次のように手直しして送り返したそうです。

「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波そふ影は恥かし」

 この詩は、次のような意味にもとれるのではないでしょうか。

「お召しは嬉しいのですが、老人に添っているので、恥ずかしくてお会いできません」

 この「老人」が徳川幕府を指しているのだとしたら、後水尾上皇はかなりセンスのある人だったと想像できます。後に徳川幕府に命じて「詩仙堂」の近くに「修学院離宮」を造営させたことも考えると、すべてお見通しだったのかもしれません。

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