石川丈山が出家し隠棲したことがある妙心寺
石川丈山が出家し隠棲したことがある妙心寺

なぜ狩野探幽は絵を描いたのか

 しかし丈山は、病身だった母を看取ると浅野家を去り、1641年(寛永18年)京都の一乗寺に「詩仙堂」を造営し、終の棲家と定めました。その頃すでに59歳だったといいます。今でいう第二の人生を過ごす家と定めたのでしょうか。「詩仙堂」は、もとは「凸凹窠」という名で、凸凹した地形のところに建てた家という意味だそうです。

 そこに林羅山とともに中国歴代の詩人を36人選んで「三十六詩仙」とし、徳川幕府の御用絵師である狩野探幽に詩人の肖像画を描かせて飾りました。これが「詩仙堂」という名の由来であることは先述したとおりです。

 林羅山は丈山に儒学を進めた学者で、「上下天分の理」という学説を説いたことで知られています。自然がもとから定められているように、人の身分も生まれた時から定められていると説く学説で、徳川幕府がつくった「士農工商」の身分制度を正当化する重要な役目を担っていたといいます。

 もしかしたら、林羅山に頼まれたから、狩野探幽は絵を描いたのでしょうか。狩野探幽は1612年(慶長17年)に駿府城で徳川家康に謁見し、1617年(元和3年)徳川幕府の御用絵師になっています。林羅山の依頼なら「詩仙堂」に絵を描いても不思議ではありません。ただ、御用絵師ですから、徳川幕府には断りを入れなければならなかったでしょう。だとすれば、林羅山の個人的な依頼ではなく他に理由があったような気がします。

 そう思って当時のエピソードを探してみると、案の定、石川丈山は徳川幕府が後水尾天皇(上皇)を監視するために雇ったスパイだったという説が見つかりました。さらに調べると、「詩仙堂」が建てられたころ、「紫衣事件」と呼ばれる出来事をきっかけに、幕府と天皇の間には確執が続いていたことがわかりました。

 簡単にまとめると、当時、京都の高僧は古くから尊さの印として、朝廷から紫衣を賜ることが定例化していたのですが、徳川幕府はそれが良くないと判断し、1615年(慶長20年)には「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに高僧に紫衣を授けることを禁じました。その条文が以下のとおり遺されています。

一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

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