
功名を狙ったため厳しく罰せらた
「詩仙堂」は、京都の出町柳から北の方へ伸びている叡山電鉄の「一乗寺駅」から歩いて10分ほどの場所にあります。一乗寺といえば宮本武蔵の「一条下り松の決闘」が行われたところ。武蔵の面影を残すように、「詩仙堂」の隣には武蔵が決闘前に立ち寄ったとされる「八大神社」が鎮座していました。
「詩仙堂」の入り口はひっそりとした佇まいで、どこか別世界に入るような錯覚を覚えます。しばらく竹林を歩くと瀟洒(しょうしゃ)な建物があり、中に入るは有名な庭園美が広がっていました。屋内には加納探幽が描いたという「三十六詩仙」のほかに、「六勿銘」(ろっこつめい)と呼ばれる漢詩の額もあります。「六勿銘」は次の意味があるそうです。
(六勿銘) | (意味) |
勿妾丙王 | 火を粗末に取り扱うな |
勿忘根族 | 盗賊を防ぐことを忘れるな |
勿厭晨興 | 朝早く起きることをいとうな |
勿嫌糲食 | 粗食をいとうな |
勿変倹勤 | 倹約と勤勉を変えてはならぬ |
勿媠拂拭 | 掃除をおこたるな |
(「詩仙堂」公式サイト他より抜粋)
また、「既飽」という文字も見られます。すでに満腹であるということで、食べ物をむさぼらず腹八分目であることをよしとする意味だそうです。
丈山は、このような言葉を見ながら生活していたということです。自分を律するためでしょうか。ならば、なぜそこまで律しなければならなかったのでしょうか。豪邸で悠々自適の引退生活なら、必要ないようにも思えます。そこで実際に丈山はどんな人だったのか、経歴を追ってみました。
石川丈山は「本能寺の変」の翌年1583年(天正11年)、徳川家に仕える石川信忠という武士の長男として生まれました。徳川家康の側近・本多正信が叔父にあたることからも、丈山は生まれた時から徳川家に仕えることが定めれていたのでしょう。
それを裏付けるように幼い頃から武芸を学び、1598年(慶長3年)に徳川家康の近侍となります。ただ1614年(慶長19年)の「大坂夏の陣」で武功を焦り、軍令に反して抜け駆けの功名を狙ったため家康から厳しく罰せられて浪人になります。当時31歳。ショックだったことでしょう。出家して妙心寺に隠棲したというエピソードも残っています。
3年後の1617年(元和3年)、知り合いだった儒学者・林羅山の勧めで儒学を学び、文武に優れた武将と見なされるようになります。士官の誘いも増えましたが、なかなか仕官せず、病気の母を養うためにやむなく紀伊(和歌山)の浅野家に仕官したと伝わっています。ちなみに浅野家は豊臣秀吉の正室・北政所の養家。北政所には徳川家康も一目置いていたことは有名です。やはり丈山は、徳川家への忠誠を持ち続けていたのかもしれません。
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