京都ゑびす神社の恵比寿神(えべっさん)

戦国時代、恵比寿神と大黒天が一対に

 その後、建仁寺と京都ゑびす神社は京都の人々に親しまれ、恵比寿神への信仰も京都の人々に広まっていきました。しかし室町時代の末に「応仁の乱」が没発します。商人たちは、突然、幕府にも朝廷にも大名にも頼らず、自力で商いをしなければならなくなりました。

 そんな中で生まれたのが「日本最古の七福神」といわれているのです。では、どのように7人の神様が集まったのか、そのプロセスをたどってみましょう。

 京都の商人たちはまず、恵比寿神と、比叡山延暦寺を開いた最澄が延暦寺の台所に祭った大黒天(毘沙門天と弁財天との合体神)を一対で祭るようになったそうです。このことは戦国時代の世相を記した『塵塚物語』(1552年=天文21年)に次のように記されています。

「大黒。恵比寿を対にして、木像を刻んだり、絵に描いたりして安置する家が多くみられる」

(「塵塚物語」より抜粋)

 室町時代中期までは、恵比寿信仰と大黒天信仰はまったく別で、それぞれ別の宗派のように分かれていたのに、戦乱の世に2神を一緒に祭り始めたというのです。これも「苦しいときの神頼み」でしょうか。

 さらに、商品たちは京都の鞍馬寺に祭られていた毘沙門天にも参拝するようになったそうです。当時「鞍馬寺で毘沙門天像を買ったら金運に恵まれた」という話が評判になったからという逸話もあります。