道長には「渡りに船」だった?

 「唐人」朱仁聡・林庭幹らの来航に関しては、(995年=長徳元年)九月四日に右大臣の藤原道長が、「唐人来航の文」を一条天皇に奏上しているのがその初見である(『台記』久安三年三月二十二日条)。そして、五日に公卿らは「唐人」が若狭国に流れ着いたことについて審議し(『小記目録』)、翌六日にも若狭国に到着した「唐人」七〇余人を若狭国より越前国に移すべきことを審議し定め申している(『日本紀略』・『百練抄』)。

(福井県史「通史編1」原始・古代より抜粋)

 どうやら、藤原道長は朱仁聡らを持て余して、越前へ移したようです。
 しかし朱仁聡らはその冬を越前で過ごしたものの、翌996年(長徳2年)7月には献上品をもって京都へ入り、朝廷へアプローチしています。しかも、朝廷はそのときの献上品を翌年、朱仁聡に返却しています。背景には当時の難しい国際情勢があり、朝廷は宋と接近することを避けたかった、というエピソードも見られます。

盧山寺「源氏庭」

 このような記録からも朝廷で政を司る藤原道長はかなり、朱仁聡らに手を焼いていたと推察されます。せめて相手と対話できれば事情も変わったのでしょうが、すぐに言葉が通じたとも思えません。

 そこに、藤原為時が一条天皇に漢詩を贈ってきたのです。道長には「渡りに船」だったのではないでしょうか。内侍が天皇に渡せなかった漢詩を、わざわざみずから渡した意味がわかるような気がします。