宋から来た謎の商人

 今昔物語には、この漢詩を内侍(天皇の秘書のような仕事をしていた女官)に託したものの、天皇がお休みになっておられたために届かず、右大臣の藤原道長がそれを知り、みずから漢詩を天皇に見せたところ、天皇が感動されて藤原為時を越前守に任じたと書かれています。

 この逸話だけなら「なんて優雅な時代だろう」と思ってお終いなのですが、平安時代の朝廷がそれほど安穏とした状態ではなかったことは様々な史実で窺い知ることができます。

 しかも右大臣の藤原道長が、鳴かず飛ばずの為時の漢詩をわざわざ自分で天皇に見せたというのです。そんなこと、ちょっと信じられません。しかも藤原道長は政治家としては優れていたものの、悪名高い逸話も伝わる人物です。「何か裏があるのでは?」と疑って調べてみると案の定、リアルな史実が浮かび上がってきました。

京都御所の目前にある藤原道長邸宅跡

 藤原為時が赴任した越前は今の福井県にあたります。そこで平安時代、越前で何があったのか「福井県史」を調べてみました。すると次のような史実が見つかったのです。

 かれ(藤原為時)が越前守に任じられたのは、一条天皇自身が学問のある者に「高麗人」と詩を作り交わらせてみたいと思っていたことも背景にあったといわれており、為時は越前国に赴いて「唐人」に次のような詩文を贈答した。

 国を去ること三年、孤館の月、帰程の万里、片帆の風。
〔国を去って三年、あなたは一人、鴻臚館で月を眺めて故国を思っておられるのであろう。 帰途は万里の道のりであるが、片寄せた帆でも順風が吹けば帰国することもできましょう〕

(福井県史「通史編1」原始・古代より)

 つまり、一条天皇は、藤原為時に「唐人」と漢詩でコミュニケーションをとらせるために越前守を命じた、ということです。

 その「唐人」とは「朱仁聡(しゅじんそう)」という宋(中国)から来た商人で995年(長徳元年)9月、70人を超す大人数で若狭国に来航し、朝廷ではその対応を巡って何度も審議が行われていたようです。その中心にいたのが藤原道長で、朱仁聡らの情報を一条天皇に報告し、審議を重ねた結果、若狭から越前へ移すことを決めました。

 福井県史にはその時のことが次のように記されています。