“トンデモ上司”8代将軍・足利義政

 それにしても将軍義政の優柔不断ぶりには驚きます。元旦に表明した意思を翌日には翻し、5日後には突然、最も信頼していたはずの家臣を“解雇”するのですから家臣たちはたまったものではなかったでしょう。山名宗全が将軍の命令を無視した気持ちもわかるような気がします。それだけに、そんな将軍の命令に従ってしまった細川勝元は悔しくて仕方なかったに違いありません。

 しかも足利義政のこの“トンデモ上司”ぶりは「御霊合戦」の時だけではありません。少し調べただけでも、びっくりするようなエピソードが出てきます。

・1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて日本全国を襲った飢饉で大量の餓死者が出ているのに、豪華な邸宅「花の御所」(京都市上京区)を改築した。
これに対し、後花園天皇が勧告したが、無視した。

・自分が後継者とした弟の義視と、妻の富子が生んだ義尚の間に勃発した足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じて優柔不断な態度をとり続けた。

・「応仁の乱」始めには中立を貫き、停戦命令を出したのに、半年後の6月には反乱を起こした細川勝元(東軍)に将軍旗を与え、東軍寄りの態度を明確にした。
それなのに、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、4年後の1471年(文明3年)5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。

 目を覆うばかりの朝令暮改ばかりです。
  『応仁の乱』には「室町時代の大名たちの横の結びつきは将軍に求心力がないと派閥形成につながる」と書かれています。つまり、8代将軍の足利義政が求心力などない優柔不断な「トンデモ上司」だったことから、家臣たちが東軍と西軍に分かれて戦ったということです。

 極論すると、将軍の足利義政が人望のある立派な政治家だったら「応仁の乱」は起こらなかったことになります。

御霊神社の門前にたつ「応仁の乱 勃発地」の石碑

 一方で、「応仁の乱」は新しい雇用形態や文化も生みました。まずは戦国時代の戦に欠かせなかった「足軽」。応仁の乱勃発の翌年1468年(応仁2年)3月、細川勝元率いる東軍が新戦力として甲冑をつけない軽装の歩兵「足軽」を起用し、京都の下条付近を焼き払わせたのです。
 『応仁の乱』には、「足軽」の登用がその後の大都市問題に発展したと説かれています。

 (前略)慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽の最大の供給源であった。

(『応仁の乱』P111より抜粋)

 このとき「足軽」が誕生していなければ、今の日本社会の形も後の豊臣秀吉の大出世も無く、日本の歴史は変わっていたでしょう。

 また、長引く大乱の中で、主戦場となった京都へ地方から米などの食料を供給する路が発達したそうです。戦う兵士たちのために、地方から大量の食糧がどんどん届けられたのです。この路が後に都と地方を結ぶ役割を果たしたことは言うまでもありません。ちなみに京都の文化もこの路から地方に伝わりました。今“小京都”が地方に多くあるのは、その名残だそうです。

 冒頭に紹介した東洋史家の内藤湖南氏の言葉どおり、長い大乱の中で新しい社会の形がつくられたことが見えてきました。