京都の中心で始まった「応仁の乱」

 「御霊神社」は京都の地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅から10分ほど歩いたところにあります。悠久の歴史が漂う古刹で、門前には「応仁の乱」の石碑があります。そして周辺は住宅や店舗、大学などが混在する静かなまちで、近くには同志社大学の今出川キャンパスや広大な相国寺、その隣には京都御所が広がっています。

「御霊神社」本殿

 室町時代には、ちょうど同志社大学に隣接するエリアに将軍が住む「花の御所」があったのだそうです。ということは、将軍の御所から徒歩数分の場所で大乱がおこり、あたり周辺が焼野原になったことになります。

 今に例えるなら、東京の丸の内あたりで暴動が起こり、皇居から霞が関あたりまでのエリアが丸ごと焼野原になるようなイメージでしょうか。そんなことが起こったら大騒ぎどころでは済まないでしょう。「応仁の乱」がいかに大変な出来事だったか推察できます。

 「応仁の乱」は1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)まで、11年もの間、京都を中心に繰り広げられた大乱です。

 その原因については、一般的に、嫡男に恵まれなかった室町幕府第8代将軍・足利義政が弟の義視を後継者に定めた直後に妻の日野富子が嫡男・義尚を産んだため、富子が義尚を後継者に据えようとして、義視との間に生じた後継者争いと言われていますが、実際は少し違ったようです。

 『応仁の乱』には以下のように書かれています。

 一般には我が子を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図ったと思われているが、義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった。富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場であり、この伊勢貞親(将軍・義政を教育し、義尚の乳父も務めた室町幕府政所執事)と意見を異にしていたのである。

(『応仁の乱』P73より抜粋)

 だったら、何がキッカケだったのでしょうか?