明智光秀が亀山城に居たのは、築城した1577年(天正5年)から、本能寺の変を起こした1582年(天正10年)まで5年ほどの間だけです。それなのに亀山城址には今も明智光秀の面影が残され、地元の人々は今も明智光秀を慕っておられるのです。440年間ずっと、明智光秀はこの町に生き続けてきたのでしょう。

知られざる5つの功績

 それを裏付けるように、観光案内所で渡されたパンフレットには「光秀の知られざる功績!」が5つ挙げられていました。ひとつずつ、詳しい説明が添えられていますが、とりあえずタイトルだけご紹介しましょう。

1. 丹波攻略に着手した光秀がとった、統治者としての手腕
2. 国人衆らを家臣として任用
3. 人心を掌握し、旧幕臣衆をうまく任用した「光秀の人材抜擢術」
4. 校則?社則?いち早く管理システムを確立した光秀の「家中軍法」
5. 城下町「亀岡」の都市計画!亀山城築城時における計算された町づくり

(京都府亀岡市「一人でも多くの人に知ってもらいたい明智光秀」より抜粋)

 このタイトルだけを見ても、光秀がこのまちや家臣のために尽力したことがわかります。なかでも3番「光秀の人材抜擢術」には「合戦で討ち死にした家臣を列記し、近江国の西教寺に供養米を寄進しているのをはじめ、合戦で負傷した家臣に対する疵養生の見舞いの書状がいくつも残っている」とエピソードが添えられていました。どうやら、光秀は家族や家臣をとても大切にする武将だったようです。

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