どうやって華道でリベンジしたのか

 華道家元池坊の公式サイトに「初代・池坊専好」のページがあり、そのまた奥まったところに、ひっそりと「毛利邸・前田邸の花」と題した、こんな記述があります。

 江戸時代に編纂された『続群書類従』に2つの記録が収められている。ともに豊臣秀吉の大名御成(おなり)に関するもので、座敷飾りの花を池坊が担当したとする。

 1つ目は『天正十八年毛利亭御成記』で、天正18年(1590)9月18日、秀吉が京都の毛利輝元邸を訪れた時の記録である。(中略)2つ目は『文禄三年前田亭御成記』で、文禄3年(1594)9月26日、秀吉が大阪の前田利家邸を訪れた時の記録とされる。

(華道家元池坊公式サイトより抜粋)

 この「2つ目」の、秀吉が訪れたときに生けられた前田利家邸の花の記述には、宮内庁書簡部史料の写真とともに、以下の記録が添えられてます。

 (大広間)同三之間四間床に四福対猿かうの絵掛もの、下に六尺二三尺の六亀の図砂之物鉢、大松の真ヲ似なひき枝二て、掛物の猿かう二拾疋有しを、松二とまりたるやう二さす也、池之坊一代出来物と風聞ありしなり、

(文禄三年前田亭御成記)

 つまり、秀吉に対して、猿が20疋も飛び交う掛物を背景に華道の大作がつくられたというのです。これに対して、以下の説明が添えられています。

 各御殿の座敷飾りの全体を指揮したのは茶人として知られた武将の織田有楽斎(織田信長の弟)で、専好が大広間三之間の床に松の大砂物を立てたという。間口が四間(約7.2メートル)もある床は、この時代に満ち溢れた豪壮な気風にふさわしいもので、そこに掛けられた四幅対の絵の中に猿20匹が大砂物の松の枝で戯れているように見えた

(華道家元池坊公式サイトより抜粋)

 これをわかりやすく表現すると、以下のようになります。

 戦国時代の家元・池坊専好は、豊臣秀吉が前田利家邸を訪れた際に、織田信長の弟が指揮した大広間に華道の大作「大砂物」を生けて披露した。その大作の背景には、猿が飛び交う掛物が配されており、まるで猿20匹が大砂物の松の枝で戯れているように見えた。

秀吉に見せてリベンジした大作「前田邸大砂物」(写真提供:華道家元池坊)

 これは大変なことです。天下人になった秀吉が「猿」とよばれることを最も嫌ったことはよく知られています。そんな秀吉に「猿が飛び交うように見える華道の大作」をわざわざ見せたのです。その場で打ち首になっても不思議ではありません。しかし、池坊専好が斬られることはありませんでした。その理由について、以下のように語り継がれています。

 「池坊専好は、親しかった千利休が秀吉に切腹させられたことに心を痛め、秀吉に猿が飛び交う華道の大作を見せることで、自分を猿と呼んだ織田信長を思い出させ、初心にかえらせた。みずから傲慢に気づき、みずから反省させることで、利休の仇討ちを果たした」

 千利休に切腹を命じた頃の秀吉は横暴で、映画やドラマで見る限り、すぐに反省するようには思えませんが、少なくとも秀吉に猿が飛び交うように見える華道の大作「大砂物」を披露したことは、宮内庁書簡部に保管されている史料「文禄三年前田亭御成記」に裏付けられた史実です。また、秀吉が池坊専好を斬らなかったのも本当のことなのです。