ギリギリまで秀吉に従わなかった政宗

 まずは、なぜ、政宗が軍の装束の色を統一してまで「秀吉に気に入られるように」しなければならなかったのか、それまでのプロセスを振り返ってみました。どうやら政宗がなかなか秀吉に従わず、天下統一ギリギリでやっと服従したことが原因だとわかってきました。

 伊達政宗が豊臣秀吉に服従したのは1590年(天正18年)、秀吉が天下統一を果たしたまさにその年です。それまで再三、秀吉から「上洛して恭順の意(秀吉に従う意思表示)をするように」と促されていましたが、政宗は北条氏と同盟関係があったため、ずっと黙殺していたそうです。

 しかし1590年5月、浅野長政から秀吉の小田原征伐参戦を催促されたことを機に秀吉に服属。これにより、秀吉は政宗の居城・黒川城に入り、北条氏政・氏直親子を降伏させて、天下統一を成し遂げたのです。

 つまり政宗は、家臣の中で最も遅く秀吉に服属した武将だったため、秀吉に自己PRしなければ存在すら認めてもらえない立場だったことなります。これは大企業で社長が交代したとき、最後まで新社長に敵対していた社員が、その後従ったとしても、出世コースに乗ることが難しいのと同じです。というより“飼い殺し”といわれる立場に追い込まれても仕方なかったと言えるでしょう。

 そんな自分の立場を、政宗が一番理解していたことを物語るエピソードが残っています。まず有名な「白装束での挨拶」です。秀吉に服属の挨拶に来た時、政宗は白装束をまとっていたというのです。これは死んだつもりで服従する意思表示でもありますが、秀吉に強く自分を印象付けるPR演出と考えてもいいでしょう。その証拠にこのあと「千利休に茶の湯の指導を受けたい」と申し出たというエピソードもあります。秀吉の気を引くための演出と考えた方が自然です。