そこでまたひとつ仮説をたててみました。大石は堀部安兵衛たちから「幕府の柳沢吉保から良い話を持ち掛けられた。吉良さえ殺せば幕府に仕官できるぞ。しかも吉良討ち入りは幕府が裏で支援してくれる」という話を聞き、それを信じて「これで将来、安泰だ」と安心して妻の出産を理由に「こんな寂しい場所は嫌だ」とごねる家族も里に帰して、自分は次の職が決まるまで羽を伸ばした・・・そう考えた方が人間的のような気がするのです。

 当時の柳沢吉保は今なら大臣といった身分でしょう。もし会社が倒産して不安な時に時の大臣から「良い職を紹介してやる」と言われたら信用しても無理はないでしょう。江戸にいた堀部たち赤穂藩の家臣たちは、最初にこの話を聞いたからこそ当初から吉良討ちを主張し、大石も次第に「これはチャンスだ」と考えたのかもしれません。

結局、幕府に裏切られて・・・

 こうして“幕府の思惑どおり”吉良上野介は討ち取られました。赤穂浪士たちは明るい未来に祝杯を挙げたことでしょう。この時の内蔵助の唄があります。

 あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

 これは「辞世の句」と伝えられていますが、実際には討ち入り後に詠んだものだそうです。

 「思いのほか楽に思いが遂げられた。(今の)身分は捨てるけれども、明るい未来が待っている」。そんな意味にも解釈できるのではないでしょうか。

 しかし約2カ月後、幕府からは切腹の沙汰がくだります。このとき大石が詠んだと伝わる本当の「辞世の句」はこれです。

 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

 「みんなで極楽へ行こう。阿弥陀様とともに48人で」。そう読み解ける句です。

 幕府の沙汰を待つ約2カ月の間、だんだん雲行きが怪しくなっていることを感じていたのでしょう。阿弥陀様と一緒に極楽へ行こうと思う気持ちがわかる気がします。

「忠臣蔵」は永遠なれ!

 これまで忠臣蔵ファンには怒られそうな仮説を展開してきましたが、大石内蔵助を血の通った一人のサラリーマンとして見ると、真実に近い気がします。ただ、もし、これが真実だったとしても「忠臣蔵」は永遠に語り継がれるべきだと思います。いつの時代もサラリーマンに勇気を与えてくれる物語は他にありませんから。

 ちなみに「忠臣蔵」は、討ち入りから46年後の1748年(寛延元年)、大坂竹本座で初上演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」に端を発した創作物語です。題材となった赤穂事件の真実がどうであれ、感動物語として後世へ伝えてくれたアーティストたち(二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳)に拍手を送りたいと思います。

◆参考資料
 考証 元禄赤穂事件―「忠臣蔵」の虚実」(稲垣史生著/PHPビジネスライブラリー)
 西郷隆盛(池波正太郎著/角川文庫)
 「忠臣蔵-その成立と展開-」(松島栄一著/岩波文庫)
 京都市山科区公式サイト など