少し強引ですが、この3つの謎からひとつの仮説をたててみましょう。

 幕府御用人・柳沢吉保は浅野内匠頭に命じて失敗した吉良暗殺を、どう進めるか考えた。そして江戸にいる赤穂藩の家臣たちに「吉良を殺したら幕府で雇ってやる」と囁いた。浪人の辛さが身に沁みている堀部安兵衛はその話に乗って、吉良討ち取りを主張した(堀部安兵衛は長い間、浪人として苦労を重ね、有名な「高田の馬場の決闘」でようやく赤穂藩に仕官している)。

 しかし幕府で働けるのはエリート中のエリート。大石内蔵助は「ちょっと眉唾じゃない?」とすぐに信じず、浅野家お家再興を考えていたが、それもダメになった。それで「もうこの話に賭けるしかない」と幕府の誘いに乗って、堀部たちと吉良邸討ち入りを決めた。

 吉良を暗殺する手立ては他にもあったが、吉良邸が江戸郊外に移ったことで「討ち入り」が最も効率的と結論づけた。なお、吉良邸を移転させたのは幕府である。そして大石たち四十七士は吉良邸討ち入りを成功させ、幕府からお呼びがかかるのを約2か月も待っていた。しかし裏切られて切腹を命じられた。柳沢吉保は赤穂浪士から秘密が漏れることを恐れたのである。

 いかがでしょうか。こう考えれば、すべて腑に落ちると思いませんか?

京都・山科の隠匿地へ

 私はこの仮説を確かめようと、大石内蔵助が「お家再興」から「吉良邸討ち入り」へ考えを変えた隠遁地の京都・山科にある「岩屋寺」へ行ってみることにしました。

岩屋寺
岩屋寺

 JR山科駅から車で約20分。「岩屋寺」は思いのほか遠く、古い住宅街の里山にありました。寺に連なる高い階段を上ると境内がありますが、私が訪れた時は猫が一匹迎えてくれただけで、人影はまったくありませんでした。

岩屋寺で出迎えてくれた猫
岩屋寺で出迎えてくれた猫

 大石内蔵助の居住地跡は、岩屋寺の門前に遺髪を収めた「大石良雄(大石内蔵助の本名)遺髪塚」と並ぶようにありました。

大石内蔵助 居住地跡
大石内蔵助 居住地跡
巴のご紋が入った遺髪塚
巴のご紋が入った遺髪塚

 さらに地元の人たちが後に建てたとされる「大石神社」が寄り添うように佇んでいました。大石内蔵助の石像もあり、「大願成就」の言葉があちこちで見受けられます。しかし人影はなく、山里の静寂に包まれていました。

「大願成就」のご利益がある大石神社
「大願成就」のご利益がある大石神社

 周囲に住宅があるものの、聞こえるのは山中を吹き抜ける風の音だけ。まるで社会から自分だけ取り残されてしまったような気すらします。現在でもこのような気がするのですから江戸時代はもっと山深かく、人の気配もなかったでしょう。

 そんな静かな環境で約1年間、大石は隠遁していたのです。赤穂藩の筆頭家老だった頃に比べると、心に穴があいたような気分になったのではないでしょうか。

 そんな中で大石はプライベートでも大きな決断をしています。山科に来て10カ月後の1702年(元禄15年)4月に家族を妻の里に帰しているのです。その後、大石はこの地で放蕩三昧をしていたという記録が残っており、その間、妻のりくは実家で出産しています。

 このエピソードは討ち入りを決めた大石が家族を妻の里に帰し、死を覚悟して放蕩三昧をした、あるいは吉良の目を誤魔化すため放蕩三昧をした、とされていますが、本当にそうでしょうか。死を覚悟していたなら、どうせ、すぐに今生の別れが来るのですから、限られた最後の時を家族とともに過ごしたいと思うのが人情ではないでしょうか。しかも妻のりくは、大石の子を産んでいるのです。なんとなく、これからも長く生きることを考えていたような気がしませんか?

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