実際にそんな説も多数、囁かれています。徳川綱吉のブレーンだった幕府御用人・柳沢吉保が政策を進める上で吉良上野介が邪魔になり、田舎侍と軽んじていた赤穂藩の浅野内匠頭に暗殺を命じたというのです。これが真実だとすればすべて辻褄があいます。純朴な浅野はそれを真正直に受け取ったものの、吉良の命を奪うには気が引けて、必ず制止が入る松の大廊下で「ちゃんと私がやりました」と披露したのかもしれません。そうだとすれば柳沢吉保はさぞ、びっくりしたことでしょう。そっと殺してほしかったのに“披露”されてはたまりません。このままでは「柳沢さんに言われてやりました」とカミングアウトされるのも時間の問題です。それで綱吉に「即刻切腹がよろしいでしょう」と進言したとは考えられないでしょうか。

 そうでなければいくら何でも一国の主である藩主をその場で切腹させるのは考えにくいと思うのです。いったん屋敷に帰して謹慎させ、「数日後に御沙汰がある」と申しつけるのが常道ではないでしょうか。

 大石内蔵助をはじめ赤穂藩の家臣たちも同じように思ったことでしょう。そして、いきなり主君が即日切腹になった裏に何があったのか探ったに違いありません。

大石内蔵助は京都で何を聞いたのか

 ここで浅野内匠頭が切腹した後の大石内蔵助たちの行動を時系列にまとめてみました。

1701年(元禄14年)
3月14日 浅野内匠頭 即日切腹
4月18日 赤穂城 明け渡し
6月25日 大石内蔵助 赤穂を出て京都・山科へ向かう
8月19日 吉良上野介、大名屋敷町から江戸郊外の松坂町へ転居
 ※郊外は討ち入りがしやすいことから、堀部安兵衛をリーダーとする赤穂藩家臣たち(江戸急進派)が、吉良を討ち取ろうと京都にいる大石に迫る
11月2日 大石が江戸に下り堀部たちと「江戸会議」を開き、主君の一周忌には結論を出すと約束する

1702年(元禄15年)
2月15日 京都・山科で「山科会議」を開く。「吉良討ち入り」を延期し、大石は主君の弟・浅野大学を立てて、お家再興をはかろうとする
7月18日 浅野大学が広島藩浅野家に引き取られ、お家再興の道は閉ざされる
7月28日 京都の円山で「円山会議」を開き、「吉良邸討ち入り」正式に決定
12月14日 吉良邸へ討ち入りを果たす
 ※赤穂浪士たちは吉良の首を主君の墓にもっていって報告。その後、幕府の沙汰を待つ

1703年(元禄16年)
2月4日 赤穂浪士四十七士 切腹

このプロセスで気になるのが以下の3点です。

1.なぜ、堀部安兵衛をリーダーとする江戸の赤穂藩家臣たちが「吉良討ち入り」を主張したのか。こういった場合、「お家再興」を考えるのが筋ではないのか。

2.なぜ、吉良上野介は郊外に屋敷を移転したのか。このとき幕府が討ち入りしやすいよう移転させたという噂が江戸に流れているが、なぜか。

3.なぜ、吉良邸に討ち入りを果たした後、浪士たちはすぐに切腹せず、約2カ月間も幕府の沙汰を待ったのか。

次ページ 京都・山科の隠匿地へ