批判だけしてもしょうがないのか

 僕はそれから、世の中が評価する人間を批判し、世の中から非難されている人間をむしろ支持するようになった。

 例えば、ロッキード事件で世の中から大ひんしゅくを買った田中角栄。当時、僕は「田中角栄無罪論」を展開し、同じく大ひんしゅくを買っていたリクルートに対しても「実はえん罪ではないか」という連載をした。その後も、鈴木宗男や堀江貴文といった、世の中で批判されている人物を支持した。

 世の中が支持している人間を大批判することもあった。僕は、それで総理大臣を二人失脚させたことがある。宮澤喜一氏と橋本龍太郎氏だ。もう一人、海部俊樹氏を追い込んだこともある。

 海部氏は、言ってみれば田中派の操り人形だった。彼が再選されそうになった時、「YKK」と呼ばれる山崎拓氏、加藤紘一氏、小泉純一郎氏らを僕の番組に呼んで、徹底的に海部大批判をした。その後、海部氏の人気がどーんと落ちて、辞任のきっかけになったのだった。

 後年、野中広務氏が僕にこんなことを言ったことがある。「田原さんはまるで国対委員長だ。我々が社会党と金曜日に玉虫色の決着をすると、田原さんの番組が放送される日曜日にそれを破壊して、月曜日から大混乱になる」。

 そういうことを繰り返しているうちに、僕は、批判だけしてもしょうがないのではないかと思うようになった。先に述べた三人の首相を失脚させても、世の中がよくなったわけではないと気付いたからだ。

 それよりも、日本の政治はいかにあるべきか、日本はどういう国であるべきか、ということを考えなければならないと思うようになった。

 僕が初めてそういう心持ちで接したのは、小渕恵三首相だった。当時の日韓関係は極めて悪かったので、小渕氏に「絶対に日韓関係を改善させなければならない」と伝えた。小渕氏は当時の韓国大統領・金大中氏と交渉し、訪日が実現した。金大中氏は過去を清算する意思を表明し、「日韓新時代」という言葉が生まれた。

 小渕氏は、沖縄問題にも尽力した。当時、野中広務や梶山静六、岡本行夫らが沖縄県をくまなく歩いたことで、沖縄県は普天間基地を辺野古に移すことに同意した。それで、小渕氏は沖縄県に感謝をし、2000年7月の主要国首脳会議(サミット)を沖縄で開くことにした。当時、沖縄と自民党の関係が極めて良好だったのは、小渕氏の働きがあったからだろう。

 こんなこともあった。ある日、自民党の中川秀直氏が、「田原さん、飯を食おう」と誘ってきた。

 赤坂の「津やま」という料理屋の2階で、2人で食事をしていると、中川氏は「実は、小泉純一郎が総裁選に出ようか迷っているらしい。過去二回、惨敗しているからだ。今度負けたら、政治生命は終わりだろう。田原さん、どう思う?」と聞いてきた。僕は冗談半分に、「今まで首相になった人間は、田中派か、田中派の全面支援を受けた人だけだ。もし、小泉が田中派と真っ向から喧嘩をし、『田中派を潰す』と本気で言うならば、僕は彼を支持をする」と言った。

 中川は「本当か。そんなことを言えば、小泉さんは暗殺されるかもしれないぞ」と、これも冗談半分で言った。しかし、今度は本気で「もし、彼が本気で言ったら、田原さんは支持してくれるのか」と聞いた。僕は、「彼が本気ならば支持しよう」と答えた。

 すると、中川氏は席を立ち、間もなく小泉氏を連れて2階に上がってきた。中川氏は、「さっきの言葉を、小泉さんの目の前で言ってくれ」と言うので、僕はもう一度、「田中派をぶっ潰すと本気で言うならば、僕は支持してもいい。でも、それをやればあなたは暗殺される可能性があるぞ」と言ったら、小泉さんは「殺されてもやる」と言った。

 小泉さんは言葉の天才だった。「田中派をぶっ潰す」と言っても、国民にとってはピンと来ない。だから、彼は選挙で「自民党をぶっ壊す」をスローガンにした。こうして小泉内閣が誕生したのだった。