写真は筆者クリコさんが、お刺身が大好きな夫アキオさんのために作った魚のタルタル(介護食バージョン)です。材料を細かく刻んで食べやすく、3層に重ねて見た目にもこだわりました

 自宅でかくれんぼをして遊ぶほどの仲良し50代夫婦(前回参照)、アキオさんとクリコさん。ところが、夫アキオさんが、がんを患ってしまいました。

 アキオさんが「天職」とまでいうほど愛する仕事、職場に復帰するには、食事を通して体力を回復することが必須です。アキオさんに背中を押されて、料理研究家になったクリコさん。愛するアキオさんのために奮闘を始めます。

 日経ビジネスオンライン史上最甘の、「バカップルの戦い」をどうぞご覧ください。

「早く会社行きて~」
 アキオの声が耳から離れない。

 アキオは口腔底がんの手術で口の中を大きく切除し、下あごの麻痺、ものを噛む機能に障がいが残った。構音(話すこと)にも障がいが残った。

 それでは仕事に差し支える、と、のんびり屋のはずのアキオは猛然と口腔リハビリに挑んでいる。地味で、すぐに効果は出ない、続けるだけでも大変そうなのに。それを見ているだけでも「仕事に戻りたい」という彼の気持ちが痛いほどわかる。

 しんどいリハビリを支えるのは体力だ。
 まずは、点滴だけで過ごした約1カ月で激減した体重を戻すこと。それには、食事をしっかり摂ること。なのだが、彼は病院で出された流動食を半分も食べ切れずに残している。

 なので、普段は徹底的にアキオに甘いわたしも
 「どうして食べられないの? わがままだよ」と、責めてしまったのだ、が。

 「1時間半かけても、お粥もおかずも半分も食べ切れないんだよ。なのにすぐまた、次のご飯の時間がくる。もう疲れた。それに、ちょっと食べてみてよコレ」

鏡を見ながらでないと、食事ができない!?

 アキオが不満げにわたしにお皿を押して寄越す。流動食のおかずははんぺんよりも軟らかい状態の魚のすり身が、魚の形に型抜きされたものだった。日によってピンク色や緑色に色が変わるものの、あまりおいしそうには見えない。ひと口食べてみると…見た目以上においしくない。

 手術が終わった後、アキオの下の歯で残っているのは奥歯1本だけ。口に入れた食べ物は、噛むことはできず、舌と上あごをうまく使ってつぶすしかない。しかも下あごの麻痺で、食べ物を口の中に入れても自分が口を閉じているのか開けているのか把握できない。

 「よく分からない」という方は、歯科治療の麻酔で下あご全体がまるっきり無感覚な状態を想像してみてください。その状態でモノを食べるって大変そうでしょう?

 そういえば、いつだったか、アキオとソファに並んで座っている時に、アキオのあごを「なでなで」と言いながら触ったことがある。「くすぐったいよ」と言わせたかったのだけれど、アキオは「全然感じない」と言い、わたしはシュンとなった。

 だから、アキオは食事の時、スプーンの位置を手鏡で確認しながら口の中に入れ、食べ物を上唇で押さえ、スプーンを引き抜いて口の中に運ぶ。鏡を見ないと、うまくいかずに口の端からこぼれてしまうから。そして口の中に意識を集中して、舌と上あごで食べ物をつぶし、ゆっくり飲み込む。そうやってアキオは1時間半食べ続け、途中で疲れ果ててしまったのだった。

 しかも、当たり前だが、薄めたスープ状のおかゆ(20倍粥だった。普通のお粥は5倍)がおいしいわけはない。
 なるほど、これを1時間半かけて食べるのは苦行だろう。