(写真=的野弘路)

 太平洋戦争で東京から瀬戸内へ疎開したおかげで、僕は小学校に入る以前から、畑と海によくなじんだ。親族があちこちに畑を持っていて、水田稲作以外のほとんどの農作業を、僕は手伝ってこなした。十歳になる頃には、戦後民主主義の学童であるよりも先に、いっぱしの農夫およびに漁夫だった。

 いまではすべてをすっかり忘れてしまい、農業の現場に立てば、なにかをきっかけにして次々に思い出すという程度の、遠い記憶になってしまった。それでもなお、いまでも覚えていることが、いくつかある。そのうちのひとつは、収穫した農産物を、近親の人たちに配る作業だ。これは僕の役目だった。

 いくつもの広い畑を、ほんの数人で耕し、植付けをし、成長して実るまで、ほとんど毎日のように、手入れをした。収穫した農作物はまず自分たちで食べたのだが、近所の人たちに配ったり、近親の人たちに届けたりもした。自転車の脇にサイド・カーというものを取り付け、その上に載せた籠のなかに農作物を満載し、幼い僕がひとりで自転車をこぎ、一日かけて近親者の家をめぐっては、農作物を配達した。

 どの家の人たちも、おそらくお返しなのだろう、なにかを僕にくれた。半年はかかる気の長い物々交換が、戦後すぐの地方都市の片隅で、日常の経済のごく小さな一部分を支えていたのだ。そこに幼い僕は参加していた。

 農作業という労働の結果である農作物を、それを食べる人たちという、いまで言う消費者に結びつける経路を、ほんの一瞬、あるかなきかのごく小さな部分で、子供の僕は担っていた。