
男のくたびれたパスポートは、血の臭いがする。密輸麻薬の臭い、少女売春婦の股座の臭い、物乞いの死体の臭い、強姦されて精神を病んだ女の臭い、胎児の死体が転がるゴミ溜めの臭い、数ドルのために噴かれた硝煙の臭い…。
アフガンやインド、ジャカルタ、フィリピン、イラクなど、アジアの底で生き抜く、「最貧民」と呼ばれる人々と、これほど寝食を共にした日本人がかつていただろうか。
石井光太の両足の肉球はその地を経巡りながら、それでもいつも繊細で優しい。むろん、手足をもぎ取られたストリートチルドレンを見る眼差しには、どこか呪われたものがあるだろう。俺は見るのだ、と。見て、撮り、書くのだ、と。表現者という業は、たえずその柔らかな足裏に、ジャーナリズムというスパイクをはかせようとするかも知れない。
だが、石井は、想像を絶した暮らしを強いられるそのスラムの人々から、楽しさや明るさまで嗅ぎつけてもいる。つまり、安穏とした日本人である自身の方が貧しく、脆いのではないか。ジャーナリズムやノンフィクション以前に、「物乞う仏陀」達は遥かに易々とその正負の価値観を裏切っているではないか。これこそほんものの人間だろう。だから、石井は敬意を忘れないのである。もし彼の肉球から鋭い爪が覗くとすれば、「豊かさ」や「貧しさ」、あるいは「人間」という概念を安易に作り出し、安心している輩に対してだろう。
[コメント投稿]記事対する自分の意見を書き込もう
記事の内容やRaiseの議論に対して、意見や見解をコメントとして書き込むことができます。記事の下部に表示されるコメント欄に書き込むとすぐに自分のコメントが表示されます。コメントに対して「返信」したり、「いいね」したりすることもできます。 詳細を読む