
その日、僕は朝からサーキットにいた。トヨタ自動車の豊田章男社長が発売を数カ月後に控えたスポーツ車両の性能確認をすることになっており、そのサポート役として待機していたのだ。
そこにやってきた社長は、おもむろにレーシングスーツに着替え、走行を始めた。コースはスリップしやすい路面がまだら状になっており、我々プロのドライバーでも躊躇するような条件だった。にもかかわらず、その悪条件を楽しむかのように喜々として、走行を続けた。自らのステアリング操作で、デビューするすべてのクルマに関わるトップなど非常に希有な存在だ。
降りてくるなりこう言った。「こんな路面状態なのに楽しめたね。クルマにとってこれが最も大切なんだよ」。そして、こうつけ加えて僕を驚かせた。「これから世界の販売店オーナーとの会合がある。そこでこう報告しよう。また1台、楽しいクルマが誕生するよって」。クルマを前にすると氏は、1人のカーガイに変身する。
それでいて豊田社長はもちろん、とても高貴な方だ。「トヨタ生産方式の父」である大野耐一(たいいち)氏の良き薫陶を受け、起業家精神を是とする豊田章一郎氏(現名誉会長)によって帝王学を授けられた。姓は豊田。その名には父親の1文字を含んでいる。
2009年、嵐の中の出航は、同時に海図なき航海であった。にもかかわらず、いや、だからと言うべきか、矢継ぎ早に改革を進め、いざ合戦に挑まんとする武将のように、馬上で太刀を佩(は)く。公聴会招致、世界恐慌、東日本大震災…。次々に襲いかかる大波にも臆することなく舵を取り続ける。本人はその苦悩を表情に出すことはない。心痛の重さは想像して余りあるが、それが自らの運命であり義務であるがごとく、慌てることなく平静を装い、事の解決に当たっているように映る。
トヨタを愛している。クルマを愛している。そしてクルマ産業に愛情を注いでいる。独り勝ちを画策する言葉を聞くことはない。「世の中に素敵なクルマが溢れればいい」と言う。いつも氏の口が紡ぎ出す言葉からは、ハッとするほどの器の大きさを感じる。豊田社長には、カーガイとしての庶民性と巨大企業トヨタのトップとしての気品が、誠に頃合いよく調和している。
後日、会合の様子を報告してくれた。「ゲストがとても喜んでくれたようだ」。庶民性と殿様としての気品に加え、もてなしの心を大切にする1人の男の、とびきりの優しさを見た。
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