障害を隠してはならない。それが人生だから

東京が五輪を開催するのは1964年以来ですが、それ以降、日本で障害者に対する人々の見方は、あまり変わっていないように感じられます。

ブルック氏:それはとても残念なことですが、パラリンピックで変わるでしょう。パラリンピックとは、開催都市に必ず変化をもたらすものです。英国でも、中国でも、オーストラリアでもそうでした。日本でも同じことが起こらなければ、非常に驚きます。大切なことは、変わるチャンスをつかむことです。障害者の人たちと私たちに、基本的には何ら違いはない。ある一つの障害という側面が違いをもたらしますが、そんなに大きな違いではありません。

 障害を持つ人に聞くと、例えばバリアフリーの面などで大きな違いはあるにせよ(考えていることなどは)障害を持たない人と全く同じだ、と言います。英国でも、きっと世界中でそうだと思いますが、人々は障害から距離を置きたがります。障害者と関わって、何か間違ったことを言ってはいけない、と感じるからです。

 しかし、パラリンピックはその壁を取り払う非常に有効な手段です。エリートスポーツを見て、「なんてすごいことができるんだ!」と感じることができます。地元開催なのですから、(東京五輪でパラリンピック放送を担当する)NHKが、より多くの放送時間を割くことを、私は期待しています。

 パラリンピックを見始めると、考えが変わります。競技に次いで、障害を持つプレゼンターが「両足と片足のない競技者にとって、生活はこうなのですよ」と、あるいは、脳性麻痺があれば、「これが脳性麻痺というものですよ」と伝える。これは、教育のプロセスです。

 今度どこかが切断された人を街で見かけたら、話しかけてみようと思えるかもしれない。「僕と同じで、おとなしい人なのかもしれない」「単に、見かけがちょっと違うだけだ」などと思えます。または、その障害について聞いてみたいと考えるかもしれない。車椅子の人に、手をさしのべてみようと思えるかもしれない。英国での経験から言うと、教育と認知向上は障害者に対する意識の変革に大きな役割を果たしますが、それは特別なことではないのです。人間が、互いの事をもっと学んでいるだけのことです。

日本ではこの夏、障害者の人たちの暮らす施設が襲撃されるという痛ましい事件があり、ご遺族にもその影響は及びました。障害を持つことを隠さなければならない傾向にある日本では、障害そのものに関する見識を変えていくのは非常に難しいと思います。

ブルック氏:その事件については聞いています。とても、痛ましい事件です。どうか心を強く持ち、心の声を聞いてください。障害を隠さねばならないと思ってしまうような日本の現状は、間違っています。どんな人種であれ、その様な見識は、誤りです。私は個人的に、リオのパラリンピック閉会式における東京のプレゼンテーションに、心を打たれました。壮大だと思いました。

 彼らには、心意気があった。片足を切断された男性が、片足がない状態で踊っていましたね。切断された部分に、ライトをつけたカッコ良い演出。あの様なものは見たことがありませんでした。通常、あのような演出の場合、義足を強調することが多いのですが、彼はむしろ切断された足を強調していた。斬新だと思いました。

 それから、盲目の男性が「私の頭の中に来て、理解して欲しい」と語りかけるところもありました。「これが私の世界で、私にはあなたが見えないのです」と言う。これも見たことがなかった。本当に心を打たれ、多くの人たちが「東京があのままの姿勢で行けば、絶対にものすごいパラリンピックになる」と話していました。

 でも、本気で強くならなければなりません。障害者が異なっているとか劣るとか、普通じゃないとか、そんな見方は馬鹿げています。障害者は、ほかの人と同じです。ほんの小さな違いがあるだけです。ほかの人と同様に扱われるべきなのです。

チャンネル4は前例のないことをやり遂げたと思いますが、日本では特にこの「前例のないこと」への挑戦に二の足を踏んでしまう傾向が根強いと思います。また、まだ日本では障害をタブー視する傾向があり、障害を社会の目から隠そうと言う意識を感じます。放送は、この状況にどう貢献できると思いますか?

ブルック氏:信念を持たねばなりません。日本は世界的に、テクノロジーの面において非常に革新的であるという評価を得ています。日本が別の(社会的な)側面で革新的になれないという理由はありません。同じ人間同士です。障害を持つ人たちについて、紹介すれば良いのです。

 放送時間を増やせば、あとはスポーツそのものが物語ってくれるでしょう。言葉は必要ありません。ただ、表現において、すまなさそうにしてはいけない。障害者の人たちを憐れむこともダメです。素直に、そして大胆に。我々の広告を見ればわかると思いますが、障害に対して申し訳なさそうにはしていません。体の一部を切断された人がいれば、その傷を放送にのせます。それが、人生というものだからです。人生がどんなものかということを、隠す行為に意味はありません。