2020年東京五輪は会場建設問題など、未だ開催に至るまでに多くの難問を抱えている。当初予算を大幅に超えるとされる費用を巡る騒動などは、2012年大会を開催したここ英国でも、逐次報じられている。今夏、筆者は五輪憲章に記されている、開催地に残されるべきレガシー(遺産)関連のテレビ取材に、ロンドンとアテネで協力した。ロンドン大会では未来に残されるべきレガシーについて、5つの明確な柱が開催前に設定されていた。おおまかには(1)スポーツ振興(2)貧困地域であったロンドン東部地区の再開発(3)経済成長(4)社会・コミュニティの統合(5)パラリンピック・レガシー、である。

 五輪開催後、社会には一体何が「レガシー」として残るのか。経費を巡る騒動が噴出する中、揺らぐ五輪開催そのものの意義を、2012年ロンドン大会に各方面で携わった人たちに聞いた。今回は、5つのレガシーの(4)に含まれていた「ボランティア活動の促進」のレガシーを、当時の参加者を通して考える。

 今月、ロンドン各地の地下鉄駅構内に掲げられているポスターに、1人の英国人女性が登場している。広告主はロンドン市で、市民に様々なボランティア活動への参加を呼びかけるものだ。車椅子に座り、微笑むエミリー・イェーツさん(25歳)は、脳性小児まひで下半身が不自由だが、2012年のパラリンピックでボランティアをしたことをきっかけに、現在ではバリアフリー・コンサルタントやトラベル・ライターなどを務め、様々な方面で活躍している。

 子供の頃から車椅子生活をしているイェーツさんだが、両親は彼女を特別扱いすることなく、生徒会やスポーツなどを通じ、積極的に活動することを勧め続けた。学生の頃から車椅子バスケや、障害を持つひとのためのボランティアを行い、高校生の時には慈善団体を通じ、1カ月間、南アフリカ共和国に滞在もした。隣国ナミビアの砂丘を登り、ケープタウンではスキューバ・ダイビングをするなど、この体験で、旅をすることに開眼した。障害を持ちながらも社会に貢献したいと強く感じていたイェーツさんは、ロンドン大会のボランティアをしたことで、自らの可能性を大きく広げた1人だ。イェーツさんの人生を変えたパラリンピックでの体験とは、どんなものだったのか。

なぜ2012年大会でボランティアをしようと思ったのですか。

エミリー・イェーツ氏(以下イェーツ氏):当時、私はクイーン・メアリー大学の学生でした。私たちの大学は五輪会場に一番近く、学生は、大学からなんらかの形でオリンピック・パラリンピックに参加することを強く勧められていたのです。私自身、車椅子バスケをしていたことで、パラリンピックや障害者スポーツが、どのように障害者に力を与えるのかということにもともと興味がありました。学生の頃からボランティア活動もしていたので、障害とボランティア、両方を兼ね備えた大会でのボランティアの機会は、渡りに船だったのです。

どんな体験だったのですか。

イェーツ氏:私は車椅子フェンシングの選手にアテンドする仕事をもらい、飲み物や競技用具等、選手が必要なものをそろえることなどを担当していました。自分が競技の道を選ばなかったことを少し後悔もしましたが、「ゲーム・メーカー」(注:ロンドン大会のボランティアの呼称。「Games Maker=大会を作る人」という意)であったことで、自分が本当に大会の一部であることが実感できました。11時間のシフト制という、とても大変な仕事でした。当然無償で働きますが、お金よりも満足感や達成感がありました。