情報戦略の本当の怖さ

 筆者はEU離脱を問う国民投票の際、地方の取材現場で、離脱派のキャンペーンを取り仕切っていた広告代理店関係者らに遭遇した。残留派、離脱派双方にこうしたキャンペーン担当の代理店やストラテジストが関与していたことは、「法律の範囲内であれば」本来は適正である。

 しかし、当時の離脱派のなりふり構わぬ移民・難民敵視のPR戦略はすさまじく、ついに投票直前、残留派の労働党女性議員の殺害(参照:英国の女性議員殺害が問う“憎悪扇動”の大罪)に至るまで、両陣営とも熱に浮かされたように互いへの攻撃を強め、深刻な社会の分断を招いた。その功罪は、投票が終わったあとも、離脱支持者による何ら罪のない移民や難民に対する苛烈なヘイト・クライムとして爪痕を残したことにもある。

 離脱派による怪しげかつ大々的な宣伝工作は、離脱決定の朝に行われた、当時の英国独立党(UKIP)ナイジェル・ファラージ党首によるインタビューに象徴されていた。

 民放ITVテレビに生出演したファラージ氏はキャスターに「キャンペーン中の主張、現状EUに支払っている3億5千万ポンド(約530億円)の金は、本当に国民保健サービス(NHS)に投じると確約できるのですね」と問われ、「いや、できない」と、いともあっさり即答した。離脱派の象徴であった赤いキャンペーンバスにははっきりと「3億5千万ポンドをNHSに」と明記されていたにもかかわらず、である。

 NHSは近年、慢性的な財政難に見舞われ、医療の現場が混乱することもしばしばだ。高額な保険料を支払えず、プライベート医療を受けられない多くの、特に低所得層の人たちにとって、このレトリックが離脱を支持する理由として有効だったことは、想像に難くない。仮にこうした情報さえも、デジタル戦略で使用されていたとしたら、結果にどう影響しただろうか。

 当事者によるデマの垂れ流しは言うまでもなく言語道断であるが、一方の側の「デマ」や偏った主張を、デジタルを含む広告への多額の資金投入により「真実」として刷り込まれてしまう危険に、有権者はもっと敏感であるべきだろう。

 20年近く前になるが、ボスニア紛争報道で頻用された「民族浄化」というキーワードが、実はボスニア外相が、ある米国のPR会社に依頼した「情報戦略」だったという内容のドキュメンタリーが放送された。(NHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」)

 ボスニアやコソボのイスラム系住民が、対立するセルビア人から一方的に迫害、虐殺され「民族が浄化された」という「物語」は、報道機関に拡散され、主力欧米メディアなどが大々的に取り上げた。

 当時、現在のようなSNS(交流サイト)を通じた情報ツールは存在せず、ましてやフェイク・ニュースなどの概念も存在しなかった。情報の拡散は、現在ほど容易ではなかったはずだ。それにもかかわらずこの紛争において、たった一つの民間PR会社により、ある特定の側(セルビア側)を世界的に孤立させる情報操作は、見事に成功したと言われている。

 広告会社などによる情報戦略は、圧倒的な財力を投じることにより、巧みに世論を左右することのできる強大なツールであろう。本来、国民全員に影響を及ぼす重大な意思決定プロセスに際し、財力のある片方だけが多額の資金を投じて一方的な世論形成を行うことは、選挙や国民投票などの民主的プロセスにおいて、あってはならないことだ。

 同時に、こうした思惑に惑わされず、適正な判断を行う知識を個々人が蓄え養うことも、氾濫する情報に対抗する有効な手段ではないだろうか。