東京に、「雲の火ばなは降りそそぐ」

 この詩の結びは、まるでゴジラの災厄を描いているかのようだ。

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

 「シン・ゴジラ」の最後のシーンで、尻尾が拡大して映し出されて人間の姿らしきものが見える。これについて作中で十分な説明はなく、インターネット上で様々な解釈が試みられている。ここでは、何らかの理由でゴジラと一体化した、もしくはゴジラに変異した牧元教授であるという解釈に一票を投じたい。

 「私は好きにした。君らも好きにしろ」――。揃えて置かれた靴は、彼自身の意思によって姿を消したことを示している。「存在」として取り戻せない妻を思うあまり、その喪失に耐えられず、核融合を原動力とした代謝回路という「現象」であるゴジラの中に自らを組み込んだ牧元教授。肉体は朽ちても、その中であれば「いかにもたしかにともりつづける」妻を感じ続けられるかもしれない。その目に映るのは「草地の黄金をすぎてくるもの」や「ひとのかたちのもの」や「農夫」が並列で語られる現象の世界。東京を破壊しつつ、その小さな目に映る者たちに「ほんたうにおれが見えるのか」と叫びながら「あたらしくそらに息つ」いている。それでいながら彼は、同時に「このからだそらのみぢんにちらばれ」とも願っている。

 賢治は『春と修羅』の中で、肉声的な言葉を括弧に入れて挟み込む手法を取る。「永訣の朝」で、妹・トシの肉声をあえて岩手弁で「(あめゆじゆとてちてけんじや)」と括弧付きで繰り返し挟み込んでいるのはその一例だ。「(このからだそらのみぢんにちらばれ)」と括弧付きで挿入されたこの一節は、「おれ」の肉声、心の底からの声だろう。ゴジラを生みながら、またゴジラを封じるヒントを残した牧元教授が抱えるアンビバレントをここに見るようだ。

 映画作品という「かげとひかりのひとくさりづつ」を連ねた「現象」の中で、修羅の中にある覚悟を決めた男が、その感情というものを感じさせない目で妻なき世界を眺めながら歩く。その動きからは、自己防衛と反撃を除けば、破壊の意志というようなものすら感じない。ただ、歩くのだ。そして東京に、「雲の火ばなは降りそそぐ」。

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 その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。

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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)