「序」は、前に引いた部分にこう続く。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 「人」を「銀河」「修羅」「海胆」と併置する感覚。「空気や塩水を呼吸」するという反応回路。そしてそれらの「本体論」を考えること自体も「畢竟こゝろのひとつの風物」であるという断言。この賢治の世界観で捉えるならば、自己も他者も、神羅万象すべての存在と現象は化学式の連鎖に過ぎず、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに、みんなのおのおののなかのすべてですから」という、他者に対する恐れも愛もない世界にたどり着くことになる。

 その世界に、「シン・ゴジラ」と同じく庵野秀明氏の作品であるアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」における、妻を失った碇ゲンドウの絶望と復讐や、最終盤に描かれる、「境界」が失われ、人と人が溶け合った世界も重なって見える。

なぜ登場人物の家族や恋愛が描かれなかったのか

 「シン・ゴジラ」の仕掛けが巧妙で深いのは、こうした絶望に「否」と突きつけるだけではない点だ。

 先述のように、ヤシオリ作戦はゴジラを「存在」ではなく「現象」と捉えることで成功を遂げた。日本政府もまた、総理大臣や官房長官などの肉体としての「存在」を失いながら、失われた椅子に新たな人が座り、この国を守ろうという人たち一人ひとりが巨大な政府という機関や機能を入れ替わり支えるようにして、あたかも「せはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈」のように、かろうじてその明かりを保ち続けた。

 この映画の描写に、主要な登場人物たちの家庭や恋愛感情が持ち込まれなかったのは、一人ひとりの「存在」というよりも、巨大な国家や政府という「現象」を支える無数の個として描こうとしたからかもしれない。核融合反応回路を備えるゴジラという「現象」に、これまでも戦火や災害で多くの生命が失われ、世代交代によって構成する国民がすべて入れ替わってもなお連綿と存続する日本という「現象」が対峙するのが「シン・ゴジラ」という映画だった、とも言えるだろう。

 人間一個の存在は、その生命が尽きることで失われる。けれども、その人間が社会的に果たしていた役割は、誰かに引き継がれ、あるいは別のものに取って替わられながら、「いかにもたしかにともりつづける」かもしれない。空しいとも尊いとも見える企業や組織、あるいは国家というものの本質の一端が、ここに語られている。

愛する者なき春と、修羅

 詩集『春と修羅』には、その名も「春と修羅」と付された詩が収められている。

 賢治の妹・トシが亡くなったのが1922年11月27日。「永訣の朝」に描かれるように、岩手の厳しい冬の中で逝った。数か月後、トシを失ったことなど何事もなかったかのように花巻に「春」が訪れる。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

 生命の萌える季節。しかし賢治は、「四月の気層のひかりの底を、唾し、はぎしりゆきき」し、「いかりのにがさ」や「青さ」を思い、自らを「修羅」と歌い上げる。愛する者なき「春」に「修羅」として生きる賢治のその姿に、「シン・ゴジラ」で妻を失った牧元教授の姿が重なって見える。