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※この記事には映画「シン・ゴジラ」の内容に関する記述が含まれています。
庵野秀明総監督の映画「シン・ゴジラ」が、大ヒットしている。怪獣映画といえば、普通は男性客が多いが、劇場には若い女性も多かったことに驚いた。筆者の周りでも、過去にゴジラシリーズはおろか、怪獣映画自体をみたことがないという若い女性が結構「シン・ゴジラ」をみている。
初代ゴジラは水爆実験によって生まれたモンスターだった。当時は敗戦からさほど時間が経過しておらず、米ソ冷戦下で核兵器開発競争が行われていた。核戦争の危機が肌で感じられる時代だった。また水爆実験によって日本の漁船が被爆する事件もあり、核がホットな話題だった。
対して、「シン・ゴジラ」のゴジラは海底に廃棄された原発の廃棄物によって生まれている。近代兵器でもかなわないゴジラは、大震災、大津波、原発事故が重なった東日本大震災を彷彿させる。つまり初代コジラが核兵器の申し子であるのに対して、「シン・ゴジラ」のゴジラは原子力発電、換言すれば東日本大震災の申し子といえるだろう。これは、先の大震災を経験した我々日本人にとって大変リアリティのある設定ではないだろうか。
本物の官僚が登場した
「シン・ゴジラ」は怪獣映画というよりも、パニック映画であり、政治サスペンス映画であるといったほうがいいだろう。主人公はゴジラに立ち向かう人間たちだ。
矢口蘭堂・内閣官房副長官の下、一癖も二癖もある中堅官僚が集まった(©2016 TOHO CO.,LTD.)
本作品は官僚や政治家の描き方が極めてリアルだった。主人公で内閣官房副長官の矢口蘭堂が、一癖も二癖もある中堅官僚(主として課長や課長補佐)を集めて対策本部をつくる。中央官庁を実際に動かしているのは課長や課長補佐クラスだ。
課長というと、あまり偉くないイメージを受けるかもしれないが、中央官庁の課長のステイタスは大手企業の経営者に匹敵する。だから普通の映画やドラマでは、眼光鋭く高級スーツをパリッと着こなした、いかにもエリート風の人物として登場することが多い。だが筆者はそのような人物を現場で見たことがない。
現実には、課長クラスでも普段はサンダル履きで、「市役所の課長さん?」というようなタイプが多い。シン・ゴジラに登場する官僚は、防衛省だけではなく、さまざまな官庁に出入りしている筆者からみて、実際にいそうなタイプの人物ばかりだった(筆者のネタ元にはこういうタイプの官僚が多い)。ドラマなどの「いかにも」居そうなタイプではなく、現実の官僚に近い雰囲気の役者を集めたことがリアリティを高めている。
登場する女性官僚もよくある妖艶な権力志向の美女ではなかった。本作品で人気を独占している環境省の尾頭ヒロミ課長補佐(市川実日子さんが演じた)のような、化粧っけがなく、野暮ったいスーツを着た女性を現実の省庁内でよく見かける。
また「シン・ゴジラ」に登場する官僚たちは若い女性を含めて、いかにも映画的な、きっちりとドーランを塗るメイクをしていないように見えた。このためアップのシーンでは、尾頭ヒロミを含めてシミやそばかすなどが目立った。このためまるでドキュメンタリー映画のように見えて、これもこの映画のリアルさを増している。庵野総監督やスタッフが極めて精緻に取材をした結果が活かされているのだろう。
真の官僚は出世できない
劇中でも言及があったが、この対策本部に集められたような“はみ出し官僚”はあまり出世できない。能力があって現状に疑問を持ったり、改革を提案したりする官僚は一般的に変人扱いされるからだ。勉強しない、“社内政治”のバランス感覚がある人間が出世する。
これは自衛隊も同じだ。他国の将校であれば当然のように読んでいるプロ用の軍事雑誌(日本のマニアが読む“専門誌”とは異なる)など読んでいると、「マニア」とか「おたく」と呼ばれる。このため話していて、愕然とするくらい軍事情報に疎い幹部(将校)が少なくない。
自衛隊ではやる気があり、現状の改革を訴える人間ほど組織から疎まれ、いびり出されたりする。このため、現役を退いた後に本音を語ってくれる将官がいる。果たして有事の際にこれで大丈夫なのかと心配になる。かつて防衛庁の天皇と呼ばれた故海原治氏は実戦を想定していない自衛隊のあり方を批判していた。30年以上経った現在でもその実態はほとんど変わっていない。
矢口は最大のフィクション
官僚ではないが、若手政治家の矢口蘭堂・内閣官房副長官(長谷川博己さんが演じた)も自己の意見を総理大臣や閣僚に進言して、赤坂秀樹・首相補佐官(竹野内豊さんが演じた)にたしなめられていた。対ゴジラ作戦が成功したのは、能力はあるが、出世にこだわらない個性の強い官僚を、矢口が組織化したからだろう。これはまさに有事の指揮官の資質である。
矢口は首相に直言をするなど、あまり政治家らしくない政治家だ。世襲議員であることが劇中で述べられていたが、恐らく庵野監督は自民党の小泉進次郎氏をイメージしたのではないだろうか。この政治家・矢口がおそらく本作品の最大のフィクションだろう。ここまで洞察力があり、信念に基づいて行動でき、いざとなれば腹を切る覚悟がある政治家が本当にいるとは思えない。
劇中、政治家が閣議や他の会議で、後ろに控えている官僚から渡されるメモをただ読むばかりのシーンが描かれている。これもまた事実だ。他の映画やドラマのように、政治家同士が断固意見を述べ合う会議はフィクションに過ぎない。
防衛省の記者会見でも大臣や幕僚長の後ろに内局官僚や制服組が何人も分厚い資料をもって控えている。質問があると、大臣にペーパーを渡す。大臣が自分の言葉で語ることはほとんどないといってよい。
筆者はこれまで防衛省の記者会見に参加してきた。だが、大臣や幕僚長が嫌がるような質問(他国では当然するような内容)をするためか、記者会見に参加する意思を表明すると、前日に広報から「明日どんな質問をします?」と電話がかかってくる。これは他の民主国家ではありえない話だ。本来このような慣れ合いに付き合いたくはなかったが、それに答えておかないと、大臣はまともな回答ができない。外国のメディアからみれば極めて奇異に映るところだ。基本的に記者クラブが独占している当局との慣れ合いのような記者会見では、シビアなやり取りはほとんどみられない。
東日本大震災当時、筆者は永田町の先生方が被災地の実情をあまりにも知らないことに驚いた。彼らは官僚から「ご説明」と呼ばれるレクチャーを受ける。防衛省の官僚や自衛隊の制服組の「全て順調に言っております」という大本営発表的な「ご説明」を鵜呑みしていた。法律や医療の政策ならば、在野にそれぞれの専門家が多くおり、様々なセカンドオピニオンが政治の世界に入ってくる。だが防衛は機密が多いこともあり、メディアの不勉強と無関心もあって、有用なセカンドオピニオンが極めて少ない。
このため筆者は現場の部隊や市ヶ谷(注:防衛省を指す)の中堅幕僚に会い、現場で何が起こっているかを調査し、与野党を問わず政治家につないだ。だが、全般的に反応は芳しくなかった。特に防衛省の中にいる政治家たちは完全に防衛省発の情報しか信じないようにみえた。
震災当時に危機感をもって動いて上に具申していた当時の中堅幕僚の多くは、上層部には反抗的と映ったらしく、大震災直後の夏の人事異動で市ヶ谷から飛ばされていった。意欲があり本当に国を憂いている人間は疎まれる。自衛隊でも有能で勉強熱心で、現状を変えようという情熱を持った人間は、自ら辞めていくか、組織から追い出される。筆者は少なからずそのような実例を見てきた。それが自衛隊の現実だ。
これで本当に危機に対応できるのか。政治家たちは官僚からの誤った情報を元に対処していたことになる。原子炉への対処など、東日本大震災への対応の迷走ぶりの一部が報道で伝えられ、明らかになっている。だが隠蔽されて「なかったこと」になっているものも少なくない。
ただし、当時の民主党政権に近い人物から、筆者が繋いだ情報で菅直人総理の暴走に随分歯止めがかかったとの話を最近聞いた。全く無駄だったではなかったらしい。
ジャーナリストは政治家や官僚の情報源
劇中で矢口の部下である志村祐介・内閣官房副官房秘書(高良健吾さんが演じた)がジャーナリストと接触するシーンがある。専門分野を持つジャーナリストは独自の情報ルートを持っているし、役所の垣根を越えて動けるので、役人が得られない情報を探し出したりすることが少なくない。このためジャーナリストと交流することで情報を得ようとする官僚が少なくない。
また自分に都合のいい情報をメディアに載せたいためにリークする人間もいる。筆者が某財団で政策提言を書いた時のことだ。その際、経産省から内閣情報調査室に出向していたある官僚から、自分の都合の良いように書き換えるよう要求されたことがある。当然断った。
メディアの多くは自衛隊がいかに活躍したかを大々的に報道した。むろん、現場の部隊、隊員たちは奮闘していた。その影で、多くの問題はほとんど報道されず、国民に情報は伝わっていない。現場の兵隊(士クラス)の充足率が極端に低い。無線が通じない。遺体袋やNBCスーツ(核・生物・化学防護服)がほとんどなかった。鳴り物入りで導入された無人ヘリは全く飛ばなかった。(この件に関しては筆者の過去の記事を参照)。
『放射能防護服や通信機器が足りない』
『災害現場で活躍する自衛隊の課題』
矢口のような政治家を望む
大震災の折に、主流派上におもねって、上司の顔色だけをみるヒラメ官僚の「大丈夫です」を鵜呑みにせず、官僚の言いなりになることなく、能力のある官僚たちを組織化できる政治家がいたら随分と対処は変わっていたのではないだろうか。
シン・ゴジラでは「幸運」にも政府首脳が全滅したので、矢口らのチームは比較的自由に動けた。だが、現実の世界ではそうはいかないだろう。ゴジラにしても、原発事故を伴った東日本大震災にしても、人智を超えた災難であり、平時のエリートたちは腰を抜かすことしかできなかった。果たして、次に我が国を襲う災害や戦争に臨んで、政府や自衛隊はその責務を果たせるか。大変に疑問だ。果たして国難に際して矢口のような政治家が現れるのだろうか。
無論、シン・ゴジラはエンターテインメント映画であり、楽しめればそれでいい。筆者も大いに楽しんだ。だが、映画をきっかけに現在の政治や行政のあり方を考えてもいいのではないだろうか。
軍事ジャーナリスト、作家。
1962年生まれ、東海大学工学部卒。2003~08年まで英国の軍事専門誌『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』日本特派員を務める。香港を拠点とするカナダの民間軍事研究機関Kanwa Information Center上級アドバイザー、日本ペンクラブ会員。
著書:『軍事を知らずして平和を語るな 』(石破 茂氏との共著 KKベストセラーズ)、『弱者のための喧嘩術』(幻冬舎アウトロー文庫)、『国防の死角』(PHP)、『防衛破綻──「ガラパゴス化」する自衛隊装備』(中公新書ラクレ)など。
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その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。
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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)
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