
「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
江戸時代の中後期(1790年前後)にうたわれたこの有名な狂歌は、幕府の実権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)による賄賂の横行やダーティーな政治慣習を際立たせるものとして扱われることが多い。
田沼の後に老中として寛政の改革を進めた元白河藩主、松平定信(まつだいらさだのぶ)によるクリーンで倹約志向の政治が息苦しく、田沼時代の自由闊達な庶民生活が懐かしい、という意味だ。
近年、田沼意次という政治家の手腕を改めて高く評価する研究が増えている。
もちろん、賄賂や金権体質をほめているのではない。通商産業政策の学びとして、多くの示唆を田沼から得ることができるからだ。
平賀源内(ひらがげんない)や杉田玄白(すぎたげんぱく)といった日本の近代史における屈指のイノベーターも、田沼意次の政策がなければその才覚を十分発揮できなかっただろう。
田沼意次が挑んだ国難「経済破綻」
田沼意次が老中として政権を担った当時の日本の状況を、今日のビジネスパーソンに分かりやすく例えてみれば、さしずめ「アジア通貨危機(1997年)の頃のインドネシア」(のインフラ環境・科学技術が200年前の状態)といったところだろうか。
「資源依存の輸出構造の中で」「資金流出が止まらず」「税収が足りない」という難局だ。
原油などの資源に依存する輸出構造の中、ルピアの為替レート暴落により大きな金融危機となったのが1990年代後半のインドネシアだ。
ただ、田沼時代以前の日本の「資源依存」は少し背景が違う。
当時の日本は主要な輸出プロダクト自体が金や銀という資金そのもので、その産出の底が尽きることで輸出はおろか、貨幣の鋳造すら難しい危機的状況に陥っていた。
たび重なる天変地異で凶作が続く中、前政権である徳川吉宗が続けてきた増税(年貢増徴)政策は限界を迎えており、経済再建に向けたあらゆる手を打たねば国の破綻を避けられない。
こんな状況で国政を託されたのが田沼意次という政治家だ。