2016年から再び閉鎖され、寂れた状態の「開城工業団地」(AP/アフロ)
2018年4月27日、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が、手をつないで南北の軍事境界線を越えた。歴史的な瞬間だ。
ここから10kmほどの場所に、北朝鮮の南部に開城(ケソン)という街がある。高麗王朝(918年~1392年)の王都だった歴史ある街だ。
今回の韓国・北朝鮮の両首脳の合意によって、この街にある「開城工業団地」に南北共同連絡事務所を設置することが決まった。ソウル聯合ニュースの報道によれば、この準備のため、6月に工業団地の視察に行った韓国代表団が見たのは、窓ガラスが割れ、建物の地下に浸水している傷んだ施設だった。
南北協力のシンボルとして2004年に操業開始したこの「開城工業団地」は、2016年の北朝鮮による長距離ミサイルの発射以来、閉鎖が続いている。
韓国が技術と資本を、北朝鮮が土地と労働力を提供し、大規模な工業生産を成功させる。この南北共同事業は、2000年に金大中大統領と金正日総書記が合意したものだ。2004年に進出した韓国の厨房器具メーカー「リビングアート」が最初の鍋1000セットを出荷した際には、両国の官民要人が記念式典に揃って出席。両国の協力関係の未来を明るく示した。
同年、衣料メーカーなど韓国企業約120社が進出し、約5万人の北朝鮮の労働者がこの工業団地で働くこととなった。「開城工業団地」は、当時の北朝鮮にとって貴重な外貨獲得のツールであり、韓国企業には低コストの生産拠点としてのメリットがあった。
北朝鮮の金正日総書記にとって、これはリスク覚悟の大仕掛けだった。
なにせ軍事境界線から10kmしか離れていない旧都に、韓国の企業を大量に誘致するのだ。軍部の反対は避けられない。それでも韓国からの大きな投資を期待し、この事業を推進した。
だが結局、「開城工業団地」は大きく発展することはできなかった。
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事業開始から約10年経った2013年時点での規模は、操業当初とほぼ同じ。進出した韓国企業は123社、北朝鮮の労働者は約5万3000人だった。北朝鮮の労働者が過度な低賃金で扱われることに対して国際労働機関(ILO)などを通した調査の必要性が指摘されるなど、韓国の大企業からの投資を得るにはクリアすべき課題が解消されなかったと見える。
そして2013年2月の北朝鮮による核実験を機に、「開城工業団地」は操業を停止した。その後、一旦は事業再開するも、2016年の長距離ミサイル発射で再度操業停止となり今に至る。
少なくとも韓国にとってこの工業団地は、お世辞にも経済メリットをもたらしたとは言えない。それでも、過去の政権リーダーの想いがつまった象徴的なこの共同事業を軽視するわけにはいかない。
韓国は、FTA交渉では体を張って「開城」を守ってきた
そんな厄介な存在である「開城工業団地」は、自由貿易協定(FTA)先進国である韓国にとって、通商交渉官を長く苦しめてきた案件でもある。
FTAで引き下げられた低い関税率の適用を受けるには、輸出する品目が「韓国製」であることを示す原産地証明書という書類が必要になる。第三国から韓国を経由して迂回輸出される品目にも低い関税率が適用されてしまうことを避ける目的だ。
ここで、韓国政府はこう主張する。
「開城工業団地で生産された製品も、ソウルや釜山で作ったものと同じく『韓国産』である」
ここで、交渉相手国は皆、まずこう回答する。
「開城は、韓国ではないのでは?」
地理的には、開城は間違いなく北朝鮮。韓国と北朝鮮の間では重要な共同事業地であったとしても、第三国からすれば、それは知ったことではない。ましてや、論点となる銘柄は「北朝鮮」。そもそも輸入関税がほとんどゼロのシンガポールを除けば、「開城工業団地も韓国」など軽々に認める国などない。
こうして、「開城工業団地」を韓国の一部と認めてもらうための交渉は、韓国が不利な状況からスタートする。
見返りとして、韓国側が大きな関税削減を約束させられたり、韓国が相手国に要求している交渉カードを取り下げさせられたり……。韓国の交渉団を大いに疲弊させて、ようやくFTA交渉の相手国からは、「いくつかの品目に限定して、開城工業団地の製品も韓国製と認める」というオファーを得ることになる。
まず最初に、ASEAN(東アジア諸国連合)全体とのFTA(2006年に合意)では、100品目に限り「韓国製」と認められた。同年のEFTA(欧州自由貿易連合:スイス・ノルウェー・アイスランド・リヒテンシュタインの4カ国)とのFTAでは276品目が、その後、インドとのFTA(2009年に合意)では108品目が、「開城工業団地」で生産された製品でも「韓国製」と見なされることになった。
「絵に描いた餅」に手を差し伸べたのは中国
韓国が手に入れたこれら100品目余りの「韓国製の開城工業団地製品」だが、苦心した交渉官には酷な現実が待っていた。
韓国の産業通商資源部と関税庁、そして開城工業団地企業協会などによれば「開城工業団地」の製品がFTAを利用して海外に輸出された実績は、2014年の時点でゼロだった。
「南北の協業で競争力ある製品を生産し、韓国のFTA網を用いて海外輸出を」という政策は、残念ながら“絵に描いた餅”だった。分析によれば、各FTAで、「韓国製」と認められた品目リストと、「開城工業団地」で生産されている製品の最新状況がズレていることも分かった。
失意の韓国政府に対し、手を差し伸べたのは中国だ。
2015年に妥結した中国と韓国によるFTAの中で、このリストは過去最大の310品目と設定された。さらに、この品目数は毎年合意により修正できるようにしたのだ。
中国の北朝鮮情勢に対する厚い理解と、対アメリカの外交・通商政策としての韓国に対する懐柔の意図を汲んで取ることができるだろう。
安全保障上や人権に関して北朝鮮を強く問題視するアメリカとのFTA(2007年に合意)や欧州連合(EU)とのFTA(2009年に合意)では、「開城工業団地にも韓国の原産性を認めてほしい」という要望を引き合いに、韓国側に多くの項目で譲歩が迫られたにもかかわらず、結局、アメリカもEUも「開城工業団地」の製品を韓国製とは認めなかった。
韓国のセンシティブな分野への気遣いにおいて、中国と欧米の差は明らかだ。
「開城」原産地規則はトランプからの贈り物になるのか?
2018年6月27日、韓国の趙明均(チョ・ミョンギュン)統一相は、「可能であれば早く開城工業団地の操業が再開されるのが良いという立場だ」と述べた。だが、あくまでも国際社会との歩調を合わせるため、北朝鮮への経済制裁が解除されることを操業再開の前提としている。
6月12日に開催された、トランプ大統領と金正恩委員長のシンガポールでの歴史的会談で、両首脳は極めて友好的な雰囲気を演出した。
一方で、ポンペオ米国務長官は、首脳会合の直後に行われたソウルでの日本の河野外相および韓国の康外相との会談で、北朝鮮が「完全な非核化」を実現するまで経済制裁は解除しないと述べている。
これだけで判断すれば、経済制裁が解除され「開城工業団地」が操業再開する日は遠い未来に思えてしまう。
トランプ大統領は帰国後も引き続き、金正恩委員長と「良い関係(good chemistry)を維持している」と述べている。経済制裁を維持しつつも、トランプ大統領(または通商に関する側近)が金正恩委員長に何かギフトをしたいと考えた時、「開城工業団地」が頭に浮かぶかもしれない。
折しも米韓FTAの見直し交渉は2018年1月に始まり、3月に大筋合意をした状態だ。署名や国内批准プロセスに入る前に、もし今からアメリカが、「開城工業団地」のいくつかの品目を「韓国製」とみなす修正案をオファーしたとしたら、韓国は喜んで受け入れるだろう。
もちろん、非核化の前進が認められないこのタイミングで、このような譲歩のカードをアメリカが切る合理性はない。だがトランプ政権の通商政策は、もはや専門家にも予想がつかないのが実態だ。あらゆる可能性が考えられる。
高麗が滅亡した後の李氏朝鮮時代、商業が栄えた開城からは多くの有力商人が輩出された。世界初の複式簿記による帳簿は開城商人が発明したとの説もある。
グローバル経済が新たなパワーバランスを模索しつつあるこの時代に、朝鮮半島情勢の象徴である「開城」が脚光を浴びる日が来るのだろうか。
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