2005年7月、前代未聞、ロボットがおとうふをつくる「相模屋食料第三工場」が稼働した。人の手を介さないから、おとうふをアツアツのままパッキングができ、風味がよい。さらには雑菌が繁殖しにくく消費期限が伸びた。それまでおとうふは毎日、小売店に運んでいたが、相模屋のおとうふは長持ちするから、大きなトラックで小売店に運べる。すなわち流通効率がよくなり、小売店はますます相模屋の商品を仕入れるようになった。こうして、鳥越はおとうふの市場を一気に変えていった。
彼は「その過程で“常識のアップデート”を繰り返すことが重要だった」と話す。
「以前はできなかったことが、自分でも気付かないうちにできるようになっている場合があるんです。例えば “3個パック”のおとうふがあります。個食化が進み、小分けにしたおとうふの方が使い勝手がよいため生まれた商品です。実はそれまで“3個パック”は絹のなかでも『充填とうふ』と呼ばれる商品しかなかったのですが、気付けば、木綿もつくれるようになっていたんです」
「充填とうふ」は、豆乳とにがりをパックに封入し、熱を加えて固めればできあがり。全自動でつくれるから、3個パックにしても手間がかからず値段が高くならない。そして鳥越は、自動車や電車に乗っている時、たまに「常識のアップデート」を行う。昔はできなかったことができるようになっているのではないか? と検証する作業だ。すると彼は「木綿も全自動でつくっているんだから、うちなら木綿の3個パックもつくれるじゃないか!」と気付いた。
新しいことを始めて成功すると、それにつれ、目の前に続々と「できること」が現れるのだ。
だが、彼の話を総合すると別の感想もある。たしかに「常識のアップデート」は大切だ。しかし、多くの人はそもそも最初の飛躍――例えば「おとうふの生産にロボットを導入しよう」といった飛躍ができずにいるのではないか?
出会いの履歴書、第6回、鳥越氏インタビューの最終回は、彼独特の「新しい自分との出会い方」について記したい。
相模屋の「木綿3個パック」。「木綿VS絹 3個パック」も
背負っていた三重苦
いったん、話を第三工場設立時に戻したい。
この時、彼はいわば“三重苦”を背負っていた。まず、資金がない。次に、機械ができるかどうかわからない。最後に、その機械を運用できるかわからなかった。
まずは資金だ。結果的に、地元の金融機関から年商を超えるほどの額を借りられたことを考えると、鳥越はよほど特別な事業計画書でもつくったのだろうか? いや、彼は「むしろできはよくなかったかもしれません」と話す。
「鉛筆をなめなめつくったようなものです。おとうふに関しては精通していましたが、金融機関の方に提出する事業計画書づくりに自信はありません(笑)。もし書面だけなら『貸せない』と言われていたかもしれませんね。ただ必死で熱意を訴え、金融機関の方に『地銀の役割は、こういう、出てきた芽を応援することではないか』と認めてもらえたんです」(関連記事はこちら→「“ザクとうふ”の相模屋は、なぜ年商以上の融資を受けられたのか?」)
次は機械だ。アツアツのおとうふがつくられているため湿度が高く、鳥越いわく、ラインからは「水もワチャワチャ出ます」。精密機械には厳しい環境だったため、ロボットのメーカーには「できない」と言われた。おとうふを入れるパックも、ラインに適合したものがつくろうとしたら非常に薄くなって、パックメーカーの担当者に「我々の常識にはない」と言われた。鳥越は苦笑する。
「四方八方から『できない、できない』の大合唱ですよ」
しかし鳥越にしてみれば「できないことをやんなきゃいけない」わけで、そもそも「できない」と言う側とは感覚が異なる。鳥越は、時にはみずからも機械やパックのメーカーに「こうすればできるのでは?」と提案し、改良を重ねてもらった。
ついに第三工場が稼働しても、今度は商品を仕入れる生協の仕入れ担当者からの強烈な叱責が待っていた。生協は厳しい品質管理体制を敷いており、相模屋からおとうふを仕入れるにあたって、わざわざ担当者が幾度も第三工場に来て、指導をしてくれた。
「できないことだらけ」の経営者だった
「生協さんと取引するということは、いわば、飛行機のパイロットになったようなものです。事故は絶対に起こせません。『これくらいならいいだろ』は絶対に許されないのです。仮に工場内での服装が少し乱れていれば『髪が入る原因になる』と捉えられます。機械の洗浄だって、隅の隅に少しでも洗浄し残しがあれば『これがもとで大事故が起こる』とお考えになります。想像以上の厳しさでした」
生協の担当者に、強い口調で怒られた。「あなたたちのレベルで この巨大な工場の管理は絶対にできません。あなたたちがこれから取り組む第三工場、その規模と生産責任を本当に理解しているんですか!」と言われた。また、生協にトラブルを報告する時、叱責が怖く、事前に報告のリハーサルを行ったこともあった。すると生協側の担当者に「練習したでしょ? そんなことをしているヒマがあったら1つでも不具合を直して下さい!」と子どもを叱るように言われた。修正した箇所は、通算3000カ所にものぼった。
そう、実を言うと鳥越は「できないことだらけ」だったのだ。
ただし、これははからずも、「最初からできる人」など誰もいないことを示してはいないだろうか?
誰もが、自分は頼りないことを知っている。鳥越も同じだったろう。第1回で書いたように、ファッションショーで女性向け商品をPRするなど、鳥越に経験も自信もあろうはずがない。世界的企業の不二製油と関係を持つことも同じだ。鳥越に聞けば……。
「第三工場も同じで、土地を買った時、まだ様々なロボットメーカーの技術を調べていたくらいですよ(笑)」
ではなぜ? 失敗するのは恐ろしい。否定されるのは何よりつらい。なのになぜ、鳥越はできると考え、やろうとするのか?
まるで青春ドラマのような答えが返ってきた。
「誰しも、人生を振り返ると『あの頃は苦しかったな』と思う時期がありますよね。でも、その時期が一番、成長していませんか? きっと、やってみて、苦しんでいいんですよ(笑)。プライドなんか捨てて、カッコ悪く生きていけばいいんです。元々できることなんて、大したことありませんって! 自信なんかあっても、手を抜いて反感を買うだけですって!」
蛮勇を持つにはどうするか
そう、鳥越は「カッコ悪い」人物だったのだ。ようするに、彼に備わっているのは「蛮勇」。できないからこそ、蛮勇をふるってやる、怒られても、怖れず前に進んでいく、そう腹をくくったものだけが持てる蛮勇。これがあるから、彼は新しい自分に出会えるのだ。
ではなぜ、彼は蛮勇が持てるのか。その答えは、彼の「その後」にあった。
相模屋のおとうふがどんどん売れていくと、鳥越は大豆の仕入れにも手を加えた。買う量が多ければ、発言力が増す。いまや鳥越は大口顧客として、北米の大豆の産地を訪ねて農家と関係を持ち、おとうふメーカーとして要望を伝えているのだ。
「出張はいつも殺人的なスケジュールです(笑)。大豆は5月に播種(種まき)したあと、7~8月に雨が降るか、日が照るかによって生育状況も味も変わります。もちろん、産地によっても味は異なります。だから、行って見ておくと、今後はどんな大豆が日本に入ってくるかわかるようになるんです」
商社側から見れば、北米視察は「接待」としての意味も持つはずだ。だが鳥越は、ラスベガスに行く、ゴルフに行く、といった用事をすべて断り、朝から晩まで大豆の畑を見続ける。日本におとうふメーカーは数あれど、北米に大豆の生育状況を見に行っている人物が何人いるだろう?
「できないこと」の正体は「今、できないこと」だ
工場で使う機械に関しても同じで、彼は徹底的に勉強していた。だから「Gとうふ」シリーズのような複雑な形の商品も世に出せた。もちろん、おとうふそのものについても同じで、鳥越は朝1時に起きながら職人技を身につけている。だから、レンジで簡単に楽しめる「とうふ麺シリーズ」、絹とうふを唐揚げにした「絹唐揚げ」など、特徴的なおとうふを開発し 安定的に生産ができる。もし、鳥越自身がおとうふづくりに通じていなければ、とても「柔らかさ、固さ、濃さを自由自在にアレンジし、今までないおとうふをつくろう」という発想はなかったに違いない。
「ひとり鍋シリーズ」の新製品「とうふ麺」。麺もスープも豆乳で、「食べごたえがあるのに低カロリー、低糖質」と売り込む。人気の担々麺もある。
「暗黙知」という言葉がある。人が人に教えることができる「形式知」と違って、どうしても伝わらない職人技のような「知」を表わす言葉だ。鳥越は、おとうふが好きで、おとうふづくりを学び、誰よりも情報を収集するうち、おとうふの「暗黙知」を得たのかもしれない。だから、周囲は「できない」と思ってしまうことも、彼は蛮勇を持って「いけるかも」と考え、蛮勇なのに、あたるのだ――。
鳥越が話す。
「できるかできないかなんて、やってから考えればいいんですよ。やらずにいたら、どうしても慎重に考え『できない』って思いますよ。でも、やってみなきゃ、わかりません。世の中に『できないこと』なんかなくって、しょせん『今はできないこと』と『過去、できなかったこと』だけなんですから。必死でやって、やりながら『できること』に変えていけばいいじゃないですか」
相模屋食料・鳥越淳司。それから「ひとり鍋シリーズ」「とうふ麺」「焼いておいしい絹厚揚げ」などをつくった日本一のおとうふ屋だ。だが彼ですら、最初は「なにもできない人」だった、というわけだ。
彼は今後、どんな人物と出会い、どんな自分と出会い、どんなおとうふを生みだしていくのだろうか。
(完)
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