茂木:今、日本の内側で、もどかしい思いを抱いている人でも、外の風を感じてラケットを振り抜けば、世界で通用する人はたくさんいると思います。それが国内でできないということは、もったいないなあ。

:もったいないですよ。日本人の空間に対する感受性や、空間を作り上げる能力は、言語よりも長けている部分があります。ぼくらの世代が、バブルがはじけて海外に行って仕事をやるしかなかった状況は、タフだったけれど、結果的にすごくためになりました。

茂木:認知科学では「ディザイアブル・ディフィカルティ(望ましい困難)」という言葉があるのですが、まさしくそれですね。たとえばアインシュタインは言語野が発達していなくて、彼は5歳までものをしゃべれなかったんです。そういう困難があったのですが、その分、視覚情報、つまりイメージを処理する部分が非常に発達していた。

:へえ。

東京・青山の隈研吾建築都市設計事務所にて

茂木:そういうことが、彼の脳の解剖所見でわかっているんです。アインシュタインは、言語野に困難があったから、イメージでものを考える能力が通常の人よりも発達して、相対性理論のブレイクスルーにつながった。困難があると、人はそれを乗り越えようとして、能力が伸びるんですよ。

「望ましい困難」が人を成長させる

:ぼくは昔、自分で作ったガラスのテーブルに手をついたら、それが割れて、右手首の神経を全部切ってしまう、という大ケガをしました。右手の指先は今でも神経がきていないので、指が思うように曲がらないんです。ぼくがワイシャツを着ないのは、一つにはボタンが留められないからで(笑)。

茂木:そうそう、隈さんは右手を大ケガされているんですよね。隈さんが建築の批評でデビューした初期のころって、ものすごく流麗なポストモダニズムの文体で、これは浅田彰か、と僕は驚いたものですが、あれは手書きでしたか。

:ケガは建築批評を書き始めたあとだったのですが、ワープロというものが普及していた当初から、ぼくは文章を手で書いていました。

茂木:パソコンも基本的に使わない、とうかがいましたが、今もそうですか。

:使っていません。スマホとiPadだけです。そう言うと、みんなに驚かれるんですが。

茂木:だからこそ隈さんのスタイルが確立したんですね。そう考えると、非常に意味深いですよ。何か困難があって、それに対応していくうちに、独自の進化、発展があった。それが「負ける建築」ということなのだろうな。

:確かにぼくはケガから変わりました。キーボード操作がうまくできないとわかったから、自分は人とボソボソしゃべりながら作っていくしかないな、と思ったわけです。文章も早く書こうとするのではなく、手書きでボソボソっと書いたものを、まとめていくしかなかった。そういう踏ん切りをつけることができたのは、右手のケガのおかげですね。

茂木:僕は落ち着きがないんですよ。小学生のときから「一人学級崩壊」と言われていて、通知表の生活欄にはずっと「落ち着きがない」という、先生の注意が書かれ続けていました。おそらく今の基準だと、ADHD(注意欠陥・多動性障害)といった判断を加えられた可能性も高いです。

:落ち着きがなかったからこそ、今の茂木さんがある(笑)。

茂木:僕のライフワークは「脳科学における意識の研究」ですが、それ以外にもテレビ番組の司会をしたり、こうやって隈さんをはじめとする各界の才人たちと対談したり、あれこれ手を伸ばしているのは、要するに落ち着きがなくて、興味の方向がめちゃくちゃだからです。これでも結構、悩んだ時期はあるんですよ。でも、ある時点から、それが自分なので、もうしょうがない、と、このスタイルを僕なりに受け入れた。不思議なもので、そうやって受け入れると、自分の道が開けるんですよね。

(構成:清野由美)

隈 研吾(くま・けんご)
1954年、横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞。同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「梼原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『負ける建築』『つなぐ建築』『建築家、走る』『僕の場所』、清野由美との共著に『新・都市論TOKYO』『新・ムラ論TOKYO』などがある。

※この連載は、書籍『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』 の内容を再構成したものです。