新聞は一切読まないことに決めた。テレビのニュース番組も見ない。職業柄、時事ネタは仕事に直結してしまい、社会復帰の焦りを猛烈に掻きたてるからだ。そして夜は池波正太郎さんの時代小説『剣客商売』をひたすら読み続けた。

 私が出版業界に足を踏みいれて間もない、30数年前に、あまりにも文章が下手だった私に「池波正太郎さんを書写しなさい」とある詩人の方にアドバイスされたことがあった。急性期病院に入院中なぜかそのエピソードを思い出し『剣客商売』をKindleで購入していた。ただし急性期病院では脳梗塞関連の本も含め、多種多様な本をその時々の気分に応じて読んでいたのだが、初台の夜の読書は池波正太郎さんに限定した。

 無駄がなく、それでいて味わい深い池波正太郎さんの文章は、一瞬にして私を江戸時代にタイムスリップさせてくれる。これには、はまった。

 昼間はリハビリの事だけを考え、夜は池波さんの世界観にどっぷりつかるのだ。また多くの方にご心配を頂いたが、しばらくは面会も辞退させていただき、完全に“外界を”シャットアウトした。

精神の安定を保つため、眠剤を飲み続けた

 さらに言えば、私は薬の力も積極的に活用した。精神に異常をきたす入り口は不眠だ。眠れぬ夜ほど危ないものはないから、眠剤を飲み続けた。「デパス」という抗不安薬を処方してもらい、何かおかしいと感じたときには、それも服用した。

 ありとあらゆる手段を講じて、精神が揺らぐことなく、安定した状態を保つことに努めたのである。もちろんその背景には家族や事務所のパートナーの存在があるわけで、彼らが私を“下界”から切り離す大きなバリヤーになってくれたからこそ、精神の健全性を維持しながらリハビリに専念するという難題を克服できたのである。

 初台のリハビリ病院に転院してから1カ月あまりが過ぎた2015年4月上旬、言語療法士から久しぶりにあの言葉を聞いた。

 「そろそろ高次脳機能障害のチェックをやりましょう」

 転院直後あれほど恐れていた高次脳機能障害も、その頃にはまったく気にならなくなっていた。入院生活の中で脳の機能障害を感じさせるものは一切なかったし、大勢の病院スタッフからもそれを指摘されたことは1度もなかったからだ。

 どんなチェックをやるのかと思ったら、ごく一般的な知能検査だった。ただ、決められた時間内に集中的に検査をやるわけではなかった。言語療法と作業療法のリハビリ時間中に何回かに分けて検査は行われたが、いざテストとなると緊張した。