2015年2月10日深夜、就寝前に歯を磨いていた私は、突然めまいを感じた。慌てて居間に戻り、ソファに座りこんだら、右腕がだらりとなって力が入らず、舌がもつれ、救急車で病院に運びこまれた。脳梗塞との闘いの始まりだった──。

 突然の脳梗塞発症から一年が経った後、2016年3月から4月にかけて、私は脳梗塞発症から現場復帰までの365日の記録を「帰還」という短期集中連載にまとめた。その時点での自分の体験や思いは書き切ったつもりだったが、やはり今から思えばまだ「帰還途上」であった。冷静になって今読み直してみると、先の見えぬ混沌の中で書いていたこともあって、この病気についてうまく伝え切れていない粗(あら)もあると感じた。

 その後も継続してリハビリに取り組み、私は社会復帰を果たしたが、その過程で脳梗塞という病気についての知見や経験も飛躍的に増えた。「帰還」執筆後の病気との戦いの経緯や、この病気を持つ人が健康な人と比べて何が違っているかということなどついて、改めて書いてみたいと思う。

2017年3月、都議会の調査特別委員会(百条委員会)の証人として出席した石原慎太郎元東京都知事は、「脳梗塞を患った後遺症で、平仮名すらも忘れました」と告白した。(写真:Natsuki Sakai/アフロ)
2017年3月、都議会の調査特別委員会(百条委員会)の証人として出席した石原慎太郎元東京都知事は、「脳梗塞を患った後遺症で、平仮名すらも忘れました」と告白した。(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

石原慎太郎元知事の「脳梗塞」発言に思うこと

 3月3日、築地市場の豊洲移転を決めた元東京都知事、石原慎太郎氏が記者会見を行った。会見中に石原氏は、「2年前に軽い脳梗塞を患い、奇跡的に早期発見されて一命をとりとめた」と発言。さらに3月20日、都議会の調査特別委員会(百条委員会)の証人として出席した折には、冒頭の宣誓後、脳梗塞の後遺症で記憶には不確かなところがあると断るとともに、以下のような告白をした。

 「脳梗塞の後遺症で、平仮名すらも忘れました」

 そうはいっても石原氏は、田中角栄ブームの火付け役となった書籍『天才』を昨年1月に出版し、大ベストセラーになったばかりである。会見場へ姿を現した石原氏の足元は麻痺のせいか、心もとない様子であったが、会見そのものは往時の迫力こそ欠いたものの、自らの主張を堂々と押し通し、石原節そのものであった。

 そうなると脳梗塞の障害を口にした冒頭のあいさつが嘘臭くなる。

 「石原さんは最初から逃げを打っていた」

 百条委員会の終了後、多くのメディアでそんな批判があがった。石原氏が脳梗塞について言及したことは、私の知人の編集者たちには責任逃れのための口実としか映っていなかった。

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