後⽇、内⽥から聞いた話だが、事務所の引っ越しは⾄難をきわめた。あの 特別なテーブルも数百冊の蔵書も、お気に入りだったデスクも全て売り払い、残すべき最低限のものだけを残し、トランクルームのような⼩さな部屋に 押し込んで、⼀時しのぎの事務所とした。⼈ひとりやっと⼊れるスペースを確保するのが精いっぱいの事務所を、内⽥は初台駅のそばに構えた。3カ⽉間、私がリハビリの猛特訓をした初台リハビリテーション病院の近くである。

 単⾏本の執筆や雑誌への寄稿、テレビ出演、講演会などの他に、うちの事務所に は⼤きな柱となる事業があった。『HARVEYROAD WEEKLY』という有料の経済レポートを週刊で発⾏してきた。いまなら有料のメルマガということになるのだろうが、発刊第1号は1990年代の半ば、まだインターネットが⼀般に普及するはるか以前だ。今年の4月末の発⾏分が1063号を数え、じつに四半世紀続いている。

 大々的な宣伝はせず、講演会でお知らせする、極めて個人的なレポートである。広く公に語るのではなく、私の考え方に共感、共鳴してくれる経営者やビジネスマンが読者の中心だ。アットホームな「ファンクラブ」のような集団といってもいいかもしれない。目に見える読者だ。

 すべての仕事をストップし、事務所も極限まで断捨離したが、『HARVEYROAD WEEKLY』は何が何でも継続したいと思っていた。しかし原稿を毎週書ける状況ではなかったし、初台リハビリテーション病院では世間の情報から自分を一切遮断してリハビリに専念すると考えていたから、その継続は絶望的だった。

経済レポート継続が大きなモチベーションに

 そこで内田が案じた一計は私が退院するまでの間は、内田が『HARVEYROAD WEEKLY』を執筆し、その間の購読料は無料にしようというアイデアだった。これは会員の人たちにも納得性があっただけでなく、私にとっても大きな意味を持った。リハビリ病院を退院と同時に社会復帰を願い、社会復帰の実践の中でリハビリすると考えていた私にとって『HARVEYROAD WEEKLY』の存在は大きなモチベーションにつながったからだ。

 脳梗塞の発症から3年で、私はすべての仕事への復帰を果たした。量的にはまだまだだが、社会復帰という観点で⾔うなら完全復帰だ。その原動⼒は仕事である。や りたい仕事があり、努⼒さえすれば道が開ける環境があったればこそ、リハビリへ の執念を絶やすことなくやってこられた。それは私が⼤きな組織の⼀員ではなく、 フリーランスを貫いていたからだ。経済的なセーフティーネットがない半⾯、組織のルールや都合に縛られず、自分がどう生きたいのか、その選択はすべて自分しだいという自由を持てたことは⼤きかった。

 もちろんサラリーマンであっても、何としても職場復帰をするのだという強い思いのある⼈はリハビリに対する執念が違う。執念が違えば、得られる成果が違う。電⾞通勤など⾊々な壁を乗り越えて、とにもかくにも職場復帰してしまえば、さらにリハビリに拍⾞がかかるのだ。リハビリ病院は⼤いに助けとなるのが、しょせんはバッティングセンターでの打撃練習のようなもので、試合で投⼿が投げる⽣きたボールを打ち返すこととは全く違う。

少々無理をしなければ良くなるものも良くならない

 脳梗塞を⼀度患うと、みな「無理をするな」と心配する。しかし私に⾔わせれば最良のリハビリは社会⼈として復帰をすることだ。もちろん、不幸にして⾼次脳機能障害になったり、定年などで年齢的な制約があったりして、職場復帰が難しい⽅がおられることも⼗分承知している。だが現役なら⼀⽇も早い職場復帰を⽬指すべきだし、会社側もそれをサポートしてほしい。

 私はリハビリ専⾨病院退院の翌⽉に新事務所を開いた。ロケーションは⾃宅と 初台リハビリ病院とのちょうど中間だ。退院後も週2回、外来でリハビリを続けるには絶好のロケーションだったからだ。リハビリと仕事がシンクロすることを、私は確信している。