ミーティングルームのテーブルはぶ厚い⽊の天板で、周囲のところどころに凹凸のついた複雑な楕円であった。7~8⼈はゆったり座れ、何よりも、事務的なにおいがまったくしない。⿇布あたりの和⾷の隠れ家にありそうなテーブルで、私はこと のほか気にいっていた。いったい何⼈の⼈たちとこのテーブルを囲んで取材や私的な勉強会をしたかわからない。

 私の事務所は個⼈事務所ではなくハーベイロード・ジャパンという 会社である。私が代表をつとめ、20年来、⼀緒に仕事をやってきたジャーナリストの内⽥裕⼦が副代表である。野村證券出⾝の優秀なTさんが正社員で諸事サポートをしてくれていた。さらに学⽣アルバイトが常時、2〜3⼈という体制だった。学⽣ア ルバイトは驚くほどものを知らなかったが、驚くほど知識を吸収する⼒が⾼かった。事務作業の⼿伝いから取材のテープ起こしに⾄るまで、あらゆる業務をこなしてくれた。

 学⽣アルバイトは15年ほど続けてきた。ネコの⼿も借りたかったからではあるが、わが社の社会貢献のひとつでもあった。就職が決まった学⽣が社会に出るために必要最低限の知識と経験を持ってほしいというのがそもそもの始まりだった。当時の 就職協定では3年⽣で内定が出るため、1年以上、社会⼈としての準備を積めるし、 さまざまな相談にも乗ってあげることもできた。卒業後も転職、留学、結婚、出産 など、折あるごとに彼らとは関わってきた。もはや姪っ⼦、甥っ⼦同然だ。

脳梗塞で、すべてが一変

 そんな環境で私は自由自在にジャーナリストとしての仕事をしてきたが、脳梗塞の発症(15年2月)ですべてが一変してしまった。

 急性期病院のベッド上で⾃分の⾝の上に起こった未経験の事態に混乱しながらも、仕事の事が頭を離れなかった。

 具体的には病院内で脳梗塞を発症した、その日の午後に予定されていた講演会と、夜8時から始まるテレビの生番組への対応だった。

 世の中には絶対に穴を開けてはならない仕事がある。俳優は「親の死に目には会えない」との覚悟で舞台にあがっているが、講演会も一緒だ。どんなことをしても会場に行かなければならない。もちろん体調不良を理由に急遽、講師が交代するケースもなくはない。私も講演前日にピンチヒッターを依頼されたことがある。

 だが主催者は講師の選定に当たって明確な意図を持ち、検討を重ねたうえで決定している。何よりも講演会の参加希望者はその講師の話が聞きたくて応募したわけだから、講師の突然の交代など許されない。

 この連載の初期に触れたが、私は当初「⼀過性脳虚⾎発作」で⼊院した。その名の通り「⼀過性」で救急隊員が到着した時には、右半⾝⿇痺の症状は完全に消えており、いわば様⼦⾒で⼊院した。「⼀過性脳虚⾎発作」は脳梗塞の前兆と⾔われるが、いつ脳梗塞が発症するかは皆⽬分からない。翌⽇なのか、翌年なのか、あるいは発症せずに済んでしまうのか。いまの医学は答えを持っていない。

 ⼊院当⽇も、翌⽇も私の⾝体にはなんの変化は起こらず、脳梗塞よりも仕事の⼼配の⽅がはるかに⼤きくなってきた。約束は絶対に守らなければいけない。私は担当医に外出許可をもらった。何があっても⾃⼰責任だよという内容の書類にサイン をして、⼊院3⽇⽬に1⽇だけ外出を許可してもらった。朝一番に帰宅してシャワーを浴びて、スーツに着替え、御殿場で講演し、その⾜でお茶の⽔のBSイレブンに向かえば、午後8時から始まる『経済深々』の放送に間に合う。その⽇のゲストはみずほ銀⾏の林信秀頭取(当時)であった。