リハビリ専門病院を退院すると、待っていたのは厳しい現実だった。病院と自宅との生活環境の違いに混乱し、適応するまでに苦労した。しかしその一方で、仕事が再開できることに心が躍った。多くのサラリーマンの皆さんと違って私の場合は毎朝同じ時刻に満員電車で通勤をしなければならないという制約が全くない。これは社会復帰をするうえで大きな優位性だったと思う。

 もちろん病気療養中でも、会社から一定の給与の支払いがあるサラリーマンと違い、フリーランスの経済ジャーナリストである私の場合は、仕事を休めば途端に収入も途絶える。

 リスクとリターンは拮抗するのだ。

 ただ私はフリーランスといってもただ1人でやってきたわけではなく、小なりといえども、事務所を構え、組織的に仕事をやってきた。社会復帰の過程をより正確にお伝えするためには、2015年2月に脳梗塞になるまでの私の事務所の様子についてお話をする必要があるだろう。

 評論家やジャーナリストなどの個人の肩書きで言論活動をしている人の中には、相当著名な人でも1人で仕事をしているケースが少なくない。自宅とは別に事務所を構えてはいても、パートタイムで電話番をしてくれる人がいるケースも少なくない。

 単純に経済的な制約からひとりでやらざるを得ないことも当然ある。私自身も若い時はそうだった。しかし経済的に余裕ができたあと、どんな形で仕事をするかは人それぞれの考え方、仕事に対する向き合い方の問題だろう。

現場に行きさえすれば良いものでもない

 私は現場第一で何よりも取材を最優先してきたが、現場に行きさえすれば良いというものでもない。現場取材といっても、どこから見るか、何を見るかで目の前の事実が違ってしまうものだ。またモノを評価するためには比較する基準を持っていなければ、せっかくの取材が独善的な印象論になってしまう。

 だから私は予備取材を大切にしていた。そのために様々な工夫や努力をするのだが、事務所はそのための大きな拠点という位置付けをしていた。常日頃から、自分が関心を持っている分野の人たちに気兼ねなく往来してもらうことで、鮮度の高いオフレコ情報も得られる。叙々苑の焼肉弁当を食べながら、会社帰りのビジネスマンとの勉強会をよくやっていた。

 私の事務所は当時、東京虎ノ門のオランダヒルズにあった。

 六本⽊ヒルズや⻁ノ⾨ヒルズとは比べるべくもない小規模な“ヒルズ”ではあるが、ビルのオーナーはれっきとした森ビル。賃料は⾼額だったが、受付の応対や清掃など管理も⾏き届いているし、アクセス もとても良かった。

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