その後も読書会は続き、中学になると「徒然草」「枕草子」、高校では「土佐日記」「更級日記」などを学びました。まず私が声に出して読み、講釈をして、間違ったところがあれば父に直されました。この読書会は先輩と同級生が加わり、生徒は3人になりました。

 これらを基礎として、自分で興味の赴くままに遊び、読書をしました。小学生の時は毎日、学校から帰ってくると、田んぼや畑、林に虫取りに出かけました。そして帰宅して夕飯を食べてからは「小学生全集」を夢中で読むのです。菊池寛と芥川龍之介が監修したもので、文学や歴史、科学など様々な分野の本が入っていました。「ジャングルブック」「源平盛衰記」などの本をボロボロになるまで読みました。

 読書をしていると、空想が広がっていきます。眠りにつく前に布団の中で、読んだ本の内容を思い出し、歴史上の人物になりきって想像を巡らすのがなんとも楽しい時間でした。このように空想する癖はその後も続き、現実的なシミュレーションの力が付きました。

 私は国鉄に入社し、実現できるとは誰も思っていなかった分割民営化を推し進めました。課長という立場ながら、圧倒的な力を持つ労働組合を敵に回して民営化に取り組む過程でも、想像力が役立ちました。例えば「組合は何を考えているのか」「次にどう出てくるのか」ということを常に考え、戦略を練っていたのです。

 JR東海発足時の1987年には取締役総合企画本部長に着任し、95年に社長、2004年に会長、14年から名誉会長に就いています。その間に東海道新幹線のシステムを磨き上げ、東京と大阪を約1時間で結ぶリニア中央新幹線の構想を立ち上げ、14年に着工しました。大きな構想を練ることにおいて、想像に遊ぶという幼い頃からの習慣が一つの武器になっています。

効率重視の弊害

 今は、子供の想像力や創造力を育むことが難しくなっているように感じます。家庭内ではテレビやゲームに細切れの時間が使われ、休日で時間がある時もテーマパークに行くという育ち方をすると、自分の興味を基に自分で決めることが少なくなってしまいます。今は誰かが作り上げたレディーメードの空想で手軽に満足してしまい、想像力がなかなか育ちません。

 私にも孫がいて勉強を見る機会があるのですが、すべてが非常にシステマチックで細切れになっています。一口一口餌付けをするように子供に食べさせると、素直な子はそれを食べて、自然に力が付くという仕組みになっています。受験対策として非常によく分析、組み立てられていて、それに乗るのが最も効率的なのでしょう。ただそのやり方だと、自分で何かを求めるとか、自分で考えて勉強の仕方を工夫する必要がありません。

 例えば、英語を勉強する時に我々の時は、まとまった本を読みました。そこには起承転結のストーリーがあり、面白く感じます。ところが最近の教科書はワンパラグラフが長文解釈の教材になっており、それを様々な本から集めてきています。あれでは英語を読む面白さは身に付かない気がします。

 実体験の乏しい効率的な教育を受けてきた人は、エビデンス(証拠)に基づくアカウンタビリティー(説明責任)を重視する傾向があります。その通りにやって結果が悪くても、アカウンタビリティーさえ果たしていればいいという。確かにエビデンスは重要ですが、それは過去における事実であり、それが明日、当たるかどうか分かりませんよね。エビデンスですべて説明できるのであれば、株で損をする人はいません。

 かつて明治維新や、日露戦争に勝つぐらいまでは自分の頭で考えたのではないでしょうか。しかし日露戦争に勝って以降の日本の教育というのは、大学の成績がいい学生が登用され、アカウンタビリティー主軸になって、自分で想像力や創造力を働かせることや直観力が失われてしまいました。

 リーダーシップには創造力が必要です。人間の世の中ですから、他人の気持ちや様々な情報に対する繊細な感受性も不可欠でしょう。これはマニュアルで教われば分かるというものではなく、原体験みたいな人間関係があって、それで自然と身に付いていくものです。兄弟や友人の間との日常生活の中での原体験があり、それを小説や歴史、伝記を読んで膨らませていく。体験は自分の時間でしかありませんが、読書によって他人の時間も取り込むことができるのです。