競争のための自己表現だけでは
国際社会で通用しないでしょう

 米国の職場はどうしても自己表現が必要です。だけれども相手の立場に立ってモノを考えて、相手を思いやりながらつなげていくことはもっと必要なことなのです。周りには競争するために、自己表現だけしている人が相当いますが、私の強みは周囲の話に耳を傾けることだと気が付きました。日本社会で育ってきた強みを米国の職場で生かしています、と。

 競争に勝ち抜くために自己表現をしているだけでは、国際社会で通用しないのではないでしょうか。私も大学経営では、職員との協力体制を重視しています。1人で経営するのは無理ですから。各人が持っている能力に偏りがあるのは当然で、それを寄せ集めて何ができるのかというコーディネート能力が何よりも重要です。

 私はこのことを江戸文化から学びました。長い間、「連」を研究してきました。連とは、様々な能力を集めて何かを作り出すという動きです。一人の天才が現れて、何でもやってしまうということは、江戸時代にはありませんでした。マルチの能力を持った人はいろいろな連に所属しながら、その能力をいろいろなところで発揮していました。

 大事な役割を果たしていたのが、コーディネーター的な人なんです。そういう人は何か作品を残すことが少ないので、蔦屋重三郎といった一部の人を除いて、歴史に名前が残ることはほとんどありません。現代社会でも競争を勝ち抜くトップだけでなく、そうしたコーディネーターのようなトップが求められていくような気がします。もはや子供に競争だけを押し付ける時代ではないのです。

「長屋」のような多様性を育め

 コーディネーターとしての役割を発揮するには、ダイバーシティーへの理解が不可欠です。子供は一人ひとりが違う特徴を持っています。大人になれば、さらに多様化した社会にさらされます。これからは外国で働いたり、外国人と一緒に日本で働いたりする可能性が高くなるでしょう。

 自分自身も多様性の中の一つの個性であることを、子供のうちに知っておかなければなりません。同じような考え方の人たちが集まって、何も言わなくても分かるよね、みたいな社会はなくなっていくでしょう。そういう社会を前提として、子供を教育するのは家庭でも学校でも危ないと思います。

 私の子供時代は裕福ではなかったので、下町の長屋のような環境で暮らしていました。長屋は誰が突然入ってきてもおかしくない環境です。しかも夏はどこの家もクーラーがありませんから、窓は開けっ放しです。通りを行き交う人から家の中が丸見えで、それですーっと家に入ってきて、そこに座っておしゃべりが始まる。それが日常でした。親戚が無意味に遊びに来て、突然泊まっていくこともあります。そういう環境で育つと、閉じられた家庭という状況はなかなか想像できません。

 できるだけ、「家庭の中に社会を入れる」というのでしょうか。最近では、誰もが勝手に入って来るようなオープンな家庭は難しいかもしれませんが、誰かをホームステイさせてもいいし、逆に子供を海外のホームステイに出すのも効果的です。多くの大学に留学制度がある理由の一つは、語学力の向上だけではなく、多様性への理解を養うためです。

 多様性のある社会では、その場で素早く判断する力が求められます。今自分がいる場所で、自分は社会に何を貢献できるかを瞬時に判断する知性が必要になります。ある人が就職していきなりアフリカに赴任することになれば、英語だけではなくフランス語も必要になるかもしれません。これまでにない事態に直面した時には、学校で学んだような既存の知識では間に合いません。どんな状況でも、自分に自信を持って、失敗を恐れず判断する力を育てることが必要なのです。

JR東海の葛西敬之名誉会長