経済同友会の代表幹事や東芝の社外取締役を務める小林喜光氏。エリート街道を歩んできたように見えるが、その道は挫折の連続だった。絶望からはい上がるプロセスにこそ、人間本来の強みが存在すると説く。
(日経ビジネス2018年2月16日号より転載)
Profile |
1946年 |
山梨県生まれ |
62年 |
山梨県立甲府第一高校入学。詩や哲学の本を読みあさる*1 |
65年 |
東京大学に入学。その後、相関理化学修士課程を修了 |
72年 |
イスラエルのヘブライ大学に留学*2*3 |
73年 |
イタリアのピサ大学に留学 |
74年 |
三菱化成工業(現三菱ケミカル)に入社、触媒や光ディスクの研究に携わる |
2007年 |
三菱ケミカルホールディングス社長に就任。事業の選択と集中を進める |
12年 |
東京電力とジャパンディスプレイの社外取締役に就任 |
15年 |
三菱ケミカルホールディングス会長、経済同友会の代表幹事、東芝の社外取締役に就任 |
三菱ケミカルホールディングス会長のほかに、経済同友会の代表幹事、東芝の社外取締役を務めています。福島第1原子力発電所の事故後に実質国有化された東京電力の社外取締役として、経営再建を進めました。
いずれも難題が多く、様々な批判にさらされてきました。しかしそれは、覚悟の上です。誰も拾わないような火中の栗を拾ってこそ、経営者やリーダーの価値があると思っています。いろいろ理屈をつけて断るより、どんなに忙しくても仕事が来たらとりあえず受けてみます。逃げてはいけません。難題に直面すると負けん気が出て、気持ちが奮い立つのです。
いろいろな組織や団体を運営して改めて思うのは、世界は徹底した競争社会だという現実です。その中で、日本の若者が、戦い抜けるのでしょうか。最近は、おとなしい秀才が増え、挑戦するという機運が減退しているように感じます。その象徴が東京大学の出身者ではないでしょうか。
日本のぬるま湯の環境につかった東大の秀才の8割はリーダーになる資質がないと見ています。東大を出て大企業に就職しただけで満足しているようにしか見えない若者が多いですから。親から用意された塾などで効率よく勉強し、小手先でごまかしてきた秀才は、絶対にリーダーになれないでしょう。
これまでの教育では、記憶力があればいい大学に行けました。今はもうスマートフォンで何でも検索できるようになったので、記憶力だけでは通用しません。さらにAI(人工知能)が記憶力だけではなく、判断力すらも備え、人間の能力を代替する可能性が出てきました。
人間がAIにはない価値を生み出すためには、人間らしい経験を積むしかありません。人間らしい経験といえば挫折です。もっといえば絶望ではないでしょうか。AIは絶望できません。絶望からはい上がるプロセスにこそ、人間本来の強みが隠されているはずです。
何か大きな目標に向かって挑戦していれば、勝ち続けることは不可能で、必ず負けます。そこで徹底的に絶望する。ジャンルは問いません。大恋愛をすれば、大失恋をする。どん底からはい上がるハングリー精神こそ、AI時代には求められるのではないでしょうか。今でこそ私は、様々な組織のリーダーを務めていますが、人生を振り返れば絶望と遠回りの連続でした。その戦いを通じて、ハングリー精神を磨いてきたのです。
戦時中のイスラエルで覚醒
私の人生に決定的な影響を及ぼしたのはイスラエルでの体験です。
昔から物事を突き詰める性格で、中学、高校時代は自らの「存在」に悩んでいました。「人生は何のためにあるのか。何で生きているのか」と。受験勉強の弊害になると感じつつも、太宰治や坂口安吾、コリン・ウィルソンの小説、中原中也の詩、哲学の本を読みあさりました。しかし、全く答えがでません。文学の道に進んだら出口のないループにはまってしまうのではないかと怖くて、東大では理系を選びました。
東大では学園紛争の真っ盛りでしたが、それを冷めて見ていました。東大生たちがゲバ棒を振り回している頃、私は渋谷で飲んでましたよ。自分の存在という問題は、暴力や政治で解決できるとは思えませんでした。
人生の光は、イスラエルのヘブライ大学への留学で見えてきました。留学を機に結婚をしたのですが、新婚旅行を兼ねて妻と、当時はイスラエル領(現エジプト領)のシナイ半島に行きました。広い砂漠を歩いていた時、生命のかけらもなさそうな砂漠の上を、黒いショールをまとった1人の女性が2匹のヤギを連れて悠然と歩いている姿を目にしました。無の砂の海に生命が存在する。「そのことがまさに奇跡ではないか」という衝撃が体を貫いたのです。
それまで「人生は何のためにあるのか」との悩みがあったのですが、「人は生きているだけで素晴らしい」と何かが吹っ切れ、“啓示”を受けた気分になりました。それからは、どうせ死ぬんだから生きている間くらい頑張ろうと、迷いなく目の前の命題に全身全霊で立ち向かうようになりました。
イスラエル人のハングリー精神からも刺激を受けました。私が留学した当時、300万人のイスラエル人が3億人のアラブ人に囲まれていました。男性は3年、女性は2年の兵役があり、大学の研究室ではエジプト軍の侵攻についてのニュースを聞きながら、軍服を着て実験をするのです。日本人の大学院生は1年に1本の論文を書けば一定の評価を得ましたが、ユダヤ人の研究者は1年に5~10本もの論文を書き、一流の学術誌に掲載されることも珍しくありませんでした。
常に戦時中という意識で、人々の根性が違う。ヘブライ語でフツパーという言葉はガッツの意味があり、これがイスラエルの精神を象徴した言葉になっています。そもそもユダヤの民は約2000年前に世界中に離散しました。一人ひとりが完璧にグローバルで戦っているから、非常に強い。世界を見る目、政治と経済の関係性など強い点がたくさんあります。
砂漠の中に都市を作るなど、何もない所から何かを生み出す力が突出している。イスラエルは国民1人当たりのベンチャー企業の数が世界で最も多い国です。当然、挑戦をたくさんするので失敗もします。イスラエルでは失敗の経験は重宝され、「君は何回失敗したのか」と聞かれます。日本の場合は、失敗をすごくネガティブに捉えますよね。その文化からはなかなかベンチャーや新しい事業は生まれないでしょう。
私は社会人になってからも失敗で何度も挫折を経験しました。入社後に注力した触媒研究では十分な成果を上げられず、会社の収益に貢献できませんでした。三菱化学メディアの社長時代には、世界的にCD-Rなどのメモリー材料が供給過剰になり、当社の累積赤字は1000億円以上に膨らんでしまいました。親会社からは事業撤退を突き付けられ、私の中で激しい闘志が湧き起こってきました。前例を無視した構造改革を断行し、黒字化を達成したことが今でも記憶に残っています。
海外から指導者の招へいも
イスラエル人のようなハングリー精神を身に付けさせるためには、子供を厳しい環境にさらすべきではないでしょうか。海外に行かせるのもいいですし、無人島に閉じこもって仮想のハングリー体験をする機会を作ってもいいかもしれません。
子供を海外に出すと同時に、海外から指導者を呼ぶことも必要だと思います。その効果は経営のみならず、スポーツでも表れています。卓球やバドミントンなど海外から指導者を招いた強化策が実って日本から世界で勝てる強豪選手が登場しています。技術力も向上しているのかもしれませんが、世界で戦うメンタリティーを鍛えられるのでしょう。
戦後は生ぬるい教育をしてきたのかもしれません。運動会の徒競走では、順位がつくのがかわいそうだからという理由で、みんなで手をつないで同時にゴールさせる学校があったことが話題になりました。かわいい子だからこそ崖から落とすという感覚が全くありません。親がリスクを潰し、細菌をみんな殺してしまうから、子供の抵抗力が落ちているのではないでしょうか。そうした環境で育った子供は、タフになりようがありません。
子供に考えさせる教育をしなければ、本人がかわいそうです。将来、大人になったら誰も教えてくれませんから。失敗や遠回りするかもしれませんが、親や教師は子供にあまりべったりせず、子供への手出し口出しを我慢しなければなりません。
親が懸命に働いていないのに、
その子供は必死に学ぶのでしょうか
私が社会人になったのは28歳の時です。イスラエルの次に留学したイタリアから帰国した後、研究者になりたかったのですが、研究室にはポストの空きがありませんでした。ツテのあった三菱化成工業(現三菱ケミカル)を訪れたのですが、就職活動なんてしたことがありません。普段着の半袖シャツと赤いズボンで会社訪問に行くと、「非常識」だと怒られましたが、論文が気に入られ、採用してもらいました。親は28歳まで定職に就かない私を心配していましたが、あまり口を出さず見守ってくれていたようです。
傑出したリーダーを生むプロセスは、企業が生み出すイノベーションと似ているのかもしれません。研究開発や事業の黎明期にはなかなか成果が上がらないので、我慢が必要です。炭素繊維という日本を代表する素材が、会社の収益に貢献するまで30年近い歳月がかかりました。教育もある程度の自由を与えて我慢しないと、ブレークスルーは起きないのです。
大人の必死な姿を見せろ
親に今必要なのは競争社会という現実に立ち向かい、必死に働くことではないでしょうか。その姿や雰囲気から子供は多くを学ぶと思います。親が懸命に働いていないのに、その子供は必死に学ぶのでしょうか。働き方改革によって無駄な仕事を削り、生活を充実させる意味はあると思います。ただ、働く意欲や体力がある人にまで無理にブレーキをかけることは、一種の教育的な効果を奪うことになりかねません。
新興国を見てください。かつて我々がそうだったように、大人は必死に働き、子供にかける余裕は時間的にも金銭的にもありません。それで子供が怠けるのかというと違います。大人の必死な姿を見て、子供も一緒に頑張るのです。昔は「おやじの背中」という言葉があり、「お袋の背中」でもいいかもしれませんが、最近はそうした姿を見せるという観点が教育から抜け落ちているのかもしれません。
教育界でも競争が足りないと思います。日本の大学は、世界の競争で劣勢に立っています。英教育専門誌の調査では毎年、東大の順位が下がり、アジアトップの座からも陥落しました。大学教授が学生に対して上手に教えることも大事ですが、いい論文を書こうと必死に研究している姿は、学生を大いに刺激するはずです。
まずは大人が目の前の課題に挑戦する。その姿が子供にとって最大の教育の題材になるでしょう。ここでいう競争とは、相手を蹴落とすスキルが求められる限られたパイの奪い合いではありません。イノベーションを起こし、新しい価値を生み出す前向きな戦いのことです。本気で戦えば負けた悔しさ、悲しさが心底分かり、他人に優しくなれるはずです。
(構成=大西 孝弘)
法政大学の田中優子総長
Powered by リゾーム?