また、ある地点の重力の大きさが分かれば、逆にその地点の地球の内部構造を推測することもできる。産総研の研究者はこのような究極の時計を安定して稼働させ、世界共通の標準時である「協定世界時」に反映させるべく技術開発に取り組んでいる。その暁には、セシウム原子の固有振動の周期に基づく現在の秒の定義も、見直されると予想されている。

協定世界時の決定に貢献する産総研の原子時計システム

人によって異なる時間の感じ方

 こうした精密な時間の測定に挑んでいる研究者がいる一方で、ほとんどの人たちは、私のようにむしろ大ざっぱで感覚的な時間を楽しんでいる。子どものころ、正月はとても待ち遠しいイベントだった。「もういくつ寝ると…」と指折り数え、「早く来い、来い」と待ちわびたものだ。

 私が生まれた田舎では、正月といっても、これといった娯楽もなく、せいぜい凧揚げやコマ回し、カルタ取り、学習雑誌の付録などで遊ぶ程度だったのだが、振り返ってみると、普段は遊んではくれない大人たちが、この時期だけは自分たちにかまってくれるという「非日常」感こそが、子どもにとって何よりの楽しみだったのかも知れない。大みそかには、今のように派手なカウントダウンもないから、「その瞬間」は、家族が寝静まっている間に何事もなく過ぎていった。朝起きて、大人たちがあまりに普段通りに元日を迎えていると、それまでの高揚感がそがれ、子ども心ながら寂しい気持ちがしたものだ。

 子どもの時、いかにも長く感じられたお正月までの期間は、年齢を重ねたせいか、最近はあっという間に過ぎてしまう。12月になるとテレビなどで「今年は残すところあと何日です」とせき立てられるせいもある。年末年始の休暇への楽しみは、子どもの頃と同様、大人になっても変わらない。あれをやろう、これをやろうと、この時期のための細かな“To Do List”を作って楽しい休暇をと臨むのだが、それでも年賀状は書かねばならないし、大掃除もしなければならない、おせちの用意もしなければならずと、まことに慌ただしく過ぎていく。

 時間の感じ方が年齢によって違うという考え方がある。ある人は、時間の長さの感覚は年齢の逆数に比例すると考えた。この説によれば、100歳の老人の1年と、10歳の子どもの1年とでは、100分の1対10分の1となり、100歳の老人は10歳の子どもより、1年を10倍も短く感じることになる。

 ちなみに、数学者だった森毅さんは、人生を11段に区分し、1段目は1歳(1×1=1)から、2段目は4歳(2×2=4)から、3段目は9歳(3×3=9)からというふうに、段数の自乗と実年齢が近似するのではないかという仮説を立てた。そして各段の期間と感覚的な時間とは等しいと考えたのである。私は今69歳なので8段目の途中ということになるが、8段目(64歳~81歳)の17年間は、青春時代を過ごした4段目(16歳~25歳)の9年間と等しく感じるということになる。森さんはこの説を、11段で構成される歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』になぞられて『人生忠臣蔵説』を唱えていた。確かに「忠臣蔵」では、初段の大序は長く感じられるが、11段目の討入りが近づくに従って短くなっていく。