体力に自信がないことを考えると、これからの「仕事」は限定せざるを得なかった。頭の中では、会社に戻るという選択肢は消えていた。そのような状況で考え抜いて出た結論は、これからの仕事は、給料や地位や名誉を求めるものではなく、真に「世のため、人のため」と実感できるものとしたいということだった。

 そこで脳裏に浮かんだのは、大学の先生には失礼な話だが、大学の先生になることだった。簡単になれるはずもないのに、現役として研究は無理かもしれないが、これまでの知識や経験をベースに自然科学概論のようなものなら講義できるかもしれないと勝手に思ったのである。学生と向き合い、自分の知見を伝えることで、次の世代の人材育成ができる、これは決して大学の先生に「でも」なるかというような後向きの選択ではない。この「仕事」候補が思いついた時には、大げさに言えばベッドの上で小躍りするような気分だった。そうだ、これまでの「頑張る一本」の生き方から「世のため、人のため」の「仕事」をしていこうという希望が見えてきたような思いがした。まさに「天命」を知ったような気分であった。

自分の中に起きた変化

 退院は11月の末、雨降りの日だった。病院に担ぎ込まれてから、1カ月が経っていた。青々としていた街路樹もすっかり紅葉していた。病院から自宅に戻るまでの途中の景色は、これまで見たことがないほどにくっきり、はっきりと鮮明なものだった。どうしてこんなにも美しい景色がこれまで目に入らなかったのかと悔やんだ。それに比べて人の行き交うさまは、あまりに慌ただしく、その中で活動することを考えると、そら恐ろしいことのように思えた。

 会社の方では、私の退院に合わせて、業務復帰のスケジュールが計画されていた。退院が近くなると、部下からは、書類だけでなく、会議の知らせなども入るようになっていた。

 自宅で数日休養した後、久しぶりに会社に行くことにした。ところが通勤途中の駅の階段の昇り降りでは息が切れるし、満員電車で立っているのもつらかった。やはり体力が持ちそうにない。会社では努めて明るく振る舞っていたが、このような生活にも早晩けじめをつけるべきだろうという思いもあり、落ち着かない日々が続いていった。

 ところが、私の弱気な予想に反して家庭や会社、周囲のサポートのおかげで、体調の方は順調に回復していった。心配していた後遺症も幸いにして残らなかった。体力が回復してくると、ひょっとしたら会社にこのまま勤められるかもしれないとの意欲が頭をもたげてきた。そして、それは現実となり、入院中に考えていた大学の先生になろうという思いは次第に消えていった。

 それでも自分の中で確実に違ったのは、ビジネスマンを続けるにしても、これまでのような、がむしゃらな「企業戦士」にはなるまいという意識が強く芽生えたことだった。死と直面する体験を通して、自分の中に変化が起きていた。大げさかもしれないが、これを契機に価値観が変わったように思う。例えて言えば、「人事を尽くして天命を知る」で満足していた生き方から、「天命を知って人事を尽くす」のだという覚悟ができたように感じたのである。それは何かを恐れていたかもしれない生き方からの解放であった。

 40代、50代は仕事に没頭しがちな年代だ。仕事も任されることが増え、責任も重くなり、やりがいもある。健康にも不安がない。私が病気になった時も、まさにそのような歳のころだった。私は幸いにして、死の淵を覗いただけで済み、自分の人生にとってかけがえのない体験となった。勿論、死に至るおそれのあるような病気はしない方がいいに決まっている。読者の方々には、40代、50代の人も多いと思う。健康と言う最も大切な人生の基盤をしっかりと見つめながら、仕事と家庭を共に大事にしていただきたいと思う。