子供のころから本は好きだった。私が育った田舎では、学校にも家にも、ふんだんに本があるという環境ではなかったため、いわば「活字」に飢えていたのかもしれない。読むものがあれば、良書であろうが悪書であろうが、手当たり次第に読みふけっていた。
やがて、自分で本を買うようになると、本棚に本を並べておくだけで自分の成長が確認できたようで楽しかった。学生時代、幾度か下宿を引っ越したのだが、本と本棚は最も大切な財産であり、何はともあれ、本棚に本を並べ終えると、どこに引っ越しても妙に落ち着いた。いくらかでも広い所へと下宿を変えていったのだが、その都度本も本棚も増えてしまい、結局自分の居場所は狭くなる一方で、まるで本のために下宿代を払っていたようなものだった。
一人暮らしのころはそれでも良かったのだが、家庭を持つようになってからはそうもいかず、一大決心をして蔵書を徹底的に処分し、かつ制限することにした。つまり、本を読んだら、重要なポイントをノートにすべて書き写すことにし、蔵書にはこだわらないことにしたのである。一冊の本を、付箋を挟みながらまず読んで、読み終えたら、その付箋をたどってノートに書き写すのである。ノートにもこだわった。ルーズリーフはいけない。必ず綴じたノートを使い、時系列にそのまま残していったのである。
この読書方法は思わぬ効用をもたらした。省スペースはもちろんだが、書き写すことによって理解が一段と深まった。読むだけでは記憶に残らないことも、一語一語、手で書くことによって「手が憶えていった」のである。ノートは今では我が家で結構な冊数となっているが、本を所有し続けることに比べれば、はるかにスペースは節約されている。今なら、パソコンに打ち込んで、記録を残すのであろうが、私には手書きという作業こそが、記憶と結びついているように思え、今なお続けている。
以前読んだ本を見たい時があれば、いつごろ読んだのかを思い出せば、時系列ノートを見てすぐにたどれる。やがて妻も私の読書方法を取り入れ、読書ノートを付けるようになった。互いにノートを見せ合えば、最も身近な人の「書評」を読むことにもなり、読書の範囲も自然と広がる。私たち2人の読書のスピードは2倍に上がった。
まるで現代語辞典だった夏目漱石
夏目漱石は、私が最初に虜になった作家だ。今年は、漱石没後100年ということで、静かなブームになっている。漱石ファンの一人としては、何を今更という気もしないではないが、漱石の作品を若い世代の人たちが読んでくれるのは、嬉しいことだ。
私が『吾輩は猫である』を読んだのは高校生の時である。まずもって、こんなに滑稽で洒脱な本はないと思った。ルビが振ってあり、原語とルビを対照すると、まるで現代語辞典を開いているような気分となった。地方の高校生には、明治時代の東京の暮らしぶりや当時の知識人の世界を知る良き参考書となった。
それから漱石の本をむさぼるように読み始め、『こころ』、『三四郎』、『それから』、『門』など、結局、発表されている全作品を読んだ。私はすっかり漱石にはまり、書く文章までが漱石っぽくなってしまった。どの作品も緻密に計算された筋立てがあり、文化や芸術に対する深い理解、現実社会への鋭い観察力に裏打ちされていて、いずれをとっても他の小説家の及ぶところではないように思えた。
そんなにも漱石にはまっている私の姿を見て、友人たちは「君は文系だ」と評した。それは漱石に熱中した努力が報われた(?)ようでまんざらでもなかったのだが、実は私は理系を希望していた。しかも理系向きだと確信もしていたので、これは自分にとっては不都合な評価だった。
その時は、まだ高校生だ。実際に言われると、案外そうかもしれないと思ったりして、「君は文系だ」は結構私の進路決定を悩ませた。迷った末、最終的には理系に決めた。後で知ったのだが、漱石は一高生の時は建築学志望だったのだが、友人の勧めで文学を目指すことになったらしい。
理系を志望してしまった私は、結局2年浪人して工学部に進んだ。教養部では理系の履修科目は必要最小限に絞り、文系科目を目一杯選択した。当時は大学紛争が激しかった頃で休講も多く、ここでも時間の大半は読書に費やした。文学や思想関連の本を読むことは、大学でのクラス討論の理論武装にもなった。何よりも「文学青年」であることが、当時の学生の最も大事なアイデンティティーの一つだったのである。
ところで、多くの漱石ファンがそうであるように、私も「猫」のパロディを書いたことがある。落語が好きになったのも漱石の影響だ。漱石の未発表文が発見されたとの報が出るといまだに心をときめかせて、その記事に見入ってしまうのである。
悔しかった井上ひさしの登場
井上ひさしも、忘れられない作家の一人だ。彼は仙台にある私の卒業した高校のライバル校OBである。最初のベストセラーとなった『青葉繁れる』は1973年に出版されたが、この作品は井上ひさし自身の高校時代のことを描いたもので、当時は漱石の『坊ちゃん』のパロディとも言われた。私たちより、何年も前の時代の話だったのに、私たちの時代そのものではないかと錯覚するほど、自分の高校生活をほうふつとさせる作品だった。今考えるとまことに不遜で失敬極まる話なのだが、私はこの本が出た時、「(ライバル校に)先にやられてしまった!」と本気で悔しがったものである。
以来「井上ひさし」を徹底的にマークすることになるのだが、彼の作品を読み重ねていくうちに、この作家は只者ではないことが、自分の中で明らかになっていった。プロの作家の凄さがわかってきたのである。取材は並外れているし、学者のような緻密さと生まじめさもあった。彼がライバル校出身であることはもはや問題ではなく、むしろ仙台つながりであることが大きな誇りになった。かくして、私は作家井上ひさしを尊敬することになり、大ファンとなってしまった。小説やエッセイ類はもちろんのこと、テレビで中継される戯曲類も欠かさずに見ることにした。
井上作品の魅力の一つは「言葉」にあり、一語一語に重みがあった。同じ東北人の言葉を持つ私は、東北人の魂のようなものまで感じさせられた。『青葉繁れる』は、私たちの青春時代を井上ひさしが記念誌として書き残してくれたようなものである。映画やテレビ化もされているが、いずれも原作の感動には及ばない。
こうして私は、なんとなく「私にしかわからないだろう井上ひさし観」を持っていたのだが、それを決定づけたのは『吉里吉里人』だった。1978年から3年間週刊誌に連載され、1981年に単行本として出版された。なんと全編が東北弁で書かれていた。社会人となって、まだ3~4年の頃に読んだ作品だ。東北の小さな町の住民が、多くのものを中央に吸い取られ、町が衰退していくことに業を煮やし「独立国」を目指して日本国政府と対峙していく話である。エキサイトした住民は武装し、中央へのコメの出荷を止めろなど、過激な意見まで出てくる。独自の文化を持つ地域住民の個別最適と中央政府の国家としての全体最適とにどう折り合いをつけるかのプロセスは、そのまま「国」とは何かを考えさせられた。
40年近くも前に書かれた小説に取り上げられた地方自治体と中央政府との関係の複雑さは、今日にまで引きずられ、むしろその重大さは増しているように思う。2011年の東日本大震災の直後、私は被災地出身ということで政府の復興構想会議の委員を任じられた。会議の席上で私は、「東北は首都圏に、江戸期にはコメを送り、明治には兵隊を送り、戦後は金の卵といわれた労働力を送り、今日では膨大な電力を送ってきた。復興の最終的ゴールは、東北が果たしてきたこの片務性を解消することではないか」と述べた。この問題意識は、今も変わっていない。
先頃、英国ではEU離脱の賛否を問う国民投票があり、国民はEU離脱を選択した。長い歴史を持つ一つの国家でも、中央と地方のズレは常に生じている。これがEUのような地域共同体となれば、中央と地方の意識の差はとてつもなく大きい。EUは共通の理念を掲げて、この意識の差を乗り越えようと努力していたのだが、地方の衰退という現実が、その理念を拒絶してしまった。それが、この離脱という大事件の一つの要因になっていたのではと思う。
日本では、どこかの地方や県が日本から離脱するという動きはない。しかし、地方の衰退と中央との格差拡大という問題は、日本でも次第に大きくなっている。2020年の東京オリンピックで、東京は更に発展するだろう。その東京の発展をいかに地方まで浸透させるのか、どのように地方を東京と共に発展させるか、それは日本の政治と経済にとって、大きな課題である。
夏休みには充電を
読者の中には、この春、社会人になった方も多いと思うが、緊張の4月を過ごし、5月のゴールデンウィークで一息つき、もう一月ほど頑張れば、夏休みだ。社会人になると、思いのほか自由になる時間は少ない。夏休みは、心と体のリズムを整え、頭の休息と充電ができる貴重な機会だ。頭の休息と充電という二律背反的なことを同時にできるのが、読書の醍醐味であると私は思う。
子供のころのように、読書感想文を提出する必要もない。限られた時間だからこそ、好きな本を味わうことが余計に楽しい。
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