1977年3月、下飯坂研究室卒業時の写真。前列中央が下飯坂先生、その後ろが筆者
東北大学では、私は下飯坂潤三先生にご指導をいただいた。先生は、工学部資源工学科の鉱物処理工学講座を担当されていた。学生達は先生のことを親しみを込めて「坂(ザカ)さん」と呼び、下飯坂研究室のことを「坂(ザカ)研」と呼んでいた。
ご自分の研究室の学生や院生が寸暇を惜しんで実験をしていることが自慢で、実験室をよく巡回された。そんな折、私はいつも間が悪く、テニスをしていたり、将棋を指していたり、花札をしていたりで、先生が望まれる研究一途の学生像とは真逆の姿を見せていることが多かった。また、先生と目が合ったのに会釈をしなかったりとか、先生がご不満に思うタネは枚挙にいとまがなく、しょっちゅう叱られた。
原因はその都度異なっていたが、どうも中鉢は人への配慮が足りないということが、その根本にあったようだ。先生は、それを「やさしさ」と表現し、「やさしくなければ研究者として大成しない」とまでおっしゃっていた。つまり、やさしくなければ人の言うことを素直に聞けないし、注意も散漫になり、デリケートな実験もできない。重要な結果が出ても見逃してしまう。これが先生の持論であった。
当時の私はそんな先生の箴言も耳に入らず、やさしさと研究に何の関係があるのか、先生が何と言おうと自分は一流の研究者になってやるんだ、と内心では考えていた。今思えば、きっとそれが態度にも表れていたのだろう、どう見ても、鼻持ちならない存在だったのである。
私は、先生に仲人をしていただいて、大学院生時代に結婚した。結婚披露宴のご挨拶でも、先生は「やさしくなければ研究者として大成しない」の持論を披瀝された。その上で「新郎は少しやさしさに欠けるところがあるので心配である。研究者としての将来もさることながら、家庭生活においても大事なことなので、よく心掛けられたい」というような趣旨のことを話された。これを聞いた私の父などは式の終了後、「お前、大丈夫か?」と真顔で心配したほどである。
先生は、私が慢心することを戒めるため「叱る」ことが多かった。その回数とそれに費やした時間を思うと、先生が「叱る」という行為に使われた情熱の総和は膨大である。私が今、逆の立場になったとしても、あれほどまでに弟子を叱るエネルギーがあるとは思えない。叱るには気力、体力が充実していなければいけないし、相手に対する愛情も必要だ。そして何より叱れば、自分も気分が悪くなってしまう。
先生は学生たちとよく話をしてくださった。学生たちは、時にはご自宅にお呼ばれして奥様の手料理をご馳走になることもあった。私はいくら叱られても、先生を大いに尊敬していた。
子どもの数を尋ねた意味
そんなある日、先生から「君は何人くらい子どもが欲しいかね」と突然のお尋ねがあった。仲人といえば親も同然である。親の想いを先取りするつもりで、幸せな家庭を望んでいることを伝えたく、私は「出来るだけ多いほうがいいです」と答えた。先生が更に、それは何人なのかとお尋ねになったので、「少なくとも3人」と答えた。私は3人兄弟だったし、子どものころはともかく、それぞれが大人になると3人は決して多いとは思わないという実感があったからである。ちなみに先生のお子さんは私と同年齢のご子息一人だけだった。
「少なくとも3人」という私の返答に対する先生の反応は意外なものだった。どうも君は世間を知らないエゴイストのようだとおっしゃったのである。よくよくお聞きすると、今、私たちが研究の対象としている鉱山も日本では次第に資源が枯渇し衰退するに違いない。一方、人口は増えるがそれに応じて食料が増えるという保証はない。従って資源も食料も不足し、やがて成長の限界に陥ることになる。
君は最近ローマクラブが出した『成長の限界』という本を知っているか。読んでいないなら是非読みたまえ、とおっしゃる。私にとっては随分と唐突な話で、マクロ的には「成長の限界」があることを認めたとしても、私個人の生き方まで、制約する必要はないだろう。ここはいくら先生でも少し言いすぎなのではないか、と大いに反抗的な気分になったことを記憶している。
『成長の限界』は当時のベストセラーであった。不幸なことに、この時の反発心がこうじて、意地でもこの本は読むまいと心に決めてしまった。その後、20年を経て、その続編ともいうべき『限界を超えて』という本が出版された。何かのきっかけで続編を読むことになり、それではと『成長の限界』にも目を通すことになった。
20年以上も目を背けていた禁書である。第一章の冒頭には次の文章が載っていた。「現在、人々は5人の息子を持つことは多すぎないと考えている。そして息子もまた5人の息子を持つ。かくて祖父が死ぬ前にすでに25人の跡継ぎがいる。それゆえ、人々はますます増え、富はますます少なくなる。彼らは一生懸命に働き、ほんのわずかしか得るところがない」。
脚注で、これは、紀元前250年ごろ韓非子によって発せられたものであることを知った。「君は何人くらい子どもが欲しいかね」と先生が私に尋ねたのは、ことによるとこの文章が下地になっていたのかもしれない。このことに気付いた時、先生はもう他界されていた。私が理事長を務めている産業技術総合研究所は、公的研究機関として「持続可能な社会の実現」をミッションとして研究活動を行っているところである。立場上、このテーマについて話す機会が多いのだが、あの時もう少し先生のお考えを聞いておけばよかったと悔やまれる。
一流の研究者になってやると意気込んでいた私は、結局、研究者としての職に就かず、先生のお世話で企業に勤め、エンジニアとしての道を歩んだ。その後、経営者としての経験も積んだ。そして今は、公的研究機関で研究者と共に働く場を与えていただいている。
産総研の中長期計画では、「人材育成」を重要な柱の一つとしている。それには実験の仕方、論文の書き方など“OJT”(On the job training)も大切だが、仕事以外の“OffJT”も大切である。人材とは手間ひまかけてつくられていくものだ。学生時代、夕食後研究室へ戻り先輩方と交わす会話のひと時、忘年会やコンパなどでの先輩や先生方との交流は、いわば学生にとっては「社交場」であった。研究者は、実験室だけでなく、こうした「社交場」でこそ磨かれる。幾度も叱られた教授室は、私にとって先生と一対一の鍛錬の場であり、「社交場」だった。今思えば、私の人生にとって最も貴重な“OffJT”だった。最近になって気がついたのだが、私は「研究者にはやさしさが重要」と先生と同じことを言い始めている。
「叱る」という指導
若手研究者の育成を目指す「産総研イノベーションスクール」で講義をする筆者
先生は、高校や大学の才能豊かな同期生が戦火に散っていったことを、悔やんでおられた。自らが生き残っていることに慚愧の念を抱かれ、「人生は空しい」が口癖だった。時折、私たち学生に「今の私と君の若さを交換しないか?」と謎かけをされることもあった。勿論、先生は功成り名を遂げた大先生で、私たちには雲の上の人だった。「交換してもいいです」と答える学生もいたが、その一方で「結構です」と断る大胆不敵な者もいた。先生は、返答に戸惑う学生たちを眺めては、楽しんでいる様子だった。
結局私たち夫婦は娘二人を授かった。毎年、正月には先生のご自宅にお年賀にお伺いしていたのだが、いつも娘たちをご自分の孫のように可愛がってくださった。そして、先生は決まったように「この子たちが幸せになるように君は頑張らなくてはいけないよ」と励ましてくださった。先生はその後、学生たちに私のような風変わりな学生がいたことを語り、時折褒めるようなこともあったらしい。それは後輩から聞いた。私には直接褒められた記憶はない。
今は、仕事も家庭も平穏にやれている。それは、先生に「叱る」という熱意溢れるご指導を頂いた賜物だったとしみじみ感じている。娘たちは30年以上も前のことなのに、にこやかな先生のお顔をまだ覚えている。私は研究の現場に戻った今、「人材育成」という最後の仕事を全うして、泉下の師への恩返しとしたいと思う。
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