苦しい「今」は続かない

 誰でも壮年期と言われる年代になると、それまで元気だった親が次第に老いていき、子どもがいれば、その教育も大事な時期を迎える。そして自分達はというと、将来が見えないまま目前の仕事に追われている。壮年期になると、これら3世代の不安が同時にやってくる。このような「多重不安」に遭遇すれば、たいていの人はパニックに陥る。これを救うためなのか、世の中には「厄年」という言い伝えがある。災難が訪れる年齢を予め男女別に定めておき、災難への注意を喚起するという習わしである。私の場合の大厄は、この三世代の多重不安がやってくる年齢と重なってしまった。「厄年」の言い伝えは、先人たちが蓄積したビッグデータから得た生きるための知恵なのだと思う。

 現実にこの多重不安と格闘している人たちがいたら、少しでも励ましてあげたいものだと思い、産業技術総合研究所の職員向けブログで「もう少しだ!頑張れ!」と題する激励メッセージを送ったことがある。ところが、これを読んだ読者の1人から、介護や子育てなどでギリギリの苦闘をしている人に向かって「もう少しだ!頑張れ!」はないだろう、理事長は分かっていないとお叱りを受けてしまった。迂闊だったなと反省をしたのだが、「今は続かない」というのは私の経験から得た率直な実感である。

 私は以前、色紙に何か言葉をと求められた時、よく「楽しい 苦しい 苦しい 楽しい」という言葉を書いた。「苦中楽あり 楽中苦あり」を口語的に言い替えたものである。現実は、人生苦もありゃ楽もあるさ、というような決して単純なものでなく、苦しい「けど」楽しいとか、苦しい「から」楽しいという一面もあるはずである。一方、先人達は、基本的には人生は苦しいことだと考えた。確かに会社勤めにせよ研究活動にせよ、その渦中では苦しいことが多い。それでも、来し方を振り返ってみれば、存外「楽しかった」と思えることがあるものである。

 誰の作かは忘れてしまったのだが、「苦しいけど楽しい山のぼり」という言葉も色紙によく書いた。後になって「苦しいから楽しい山のぼり」とも書いた。原作は「けど」だったのか「から」だったのか定かではないが、どちらも味わい深い。あのころを乗り越えて今があり、それはみんな通る道である。さまざまな苦に直面しながらも、みんな平然と生きている。例えば電車の中の隣の人も、電車を降りて道を歩いている人も、レストランで食事をしている人も、寄席で落語を聞いている人も、みんなそれぞれの苦を抱えながら生きている。「今」はそういつまでも続くものではないことを、実はみなが知っているのかもしれないとも思ってしまう。