東京に出てきたばかりの頃、山手線の駅で乗り換えるとき、周囲の人が皆、駆け足で移動しているのに驚いた。自分の故郷のように電車が一時間に一本しかないというような所ならわかる。東京では大概数分間隔で電車は来るのに、なぜ人々はこう急ぐのかが私には不思議でならなかった。
ところが、東京に移り住んで間もなくすると、私も乗り換えの時は、早足で移動するようになってしまった。約束時間に間に合うことがわかっていても、電車がホームに到着していると、閉まりそうになるドアにぎりぎりでも飛び込もうとする。それが当たり前のようになってしまった。
東京は、人や技術、資金、情報に関して世界有数のハブとなった。ビジネスに必要なリソースはみんな東京に揃っているから、これらを上手に結びつけることがビジネスで成功する秘訣だった。かくして東京に住む人はたとえ電車に乗っていても本や新聞、今ならスマホを見ながら、せわしく移動する。こうした大都市の生活様式は今に始まったことではなく、100年以上も前に夏目漱石がロンドンで同様の風景を観察し、批判的に述べている。「諸氏の精神状態は、Restless(休息なし)に烈しく落ち着きがない。兎に角多忙で、次から次に移って行く。事物を能く含味する暇がない」。
分刻みに移動している自分に、ビジネスマンとしての成長を重ねてみる人もいた。つまり多忙な人こそ重要な人なのであるという錯覚である。昔、「忙」という字は立心偏(りっしんべん)、即ち心を亡ぼすと書くのだと言っていた人がいたことを思い出すが、働き盛りの真っただ中にいた自分も、当時はこんなことは冴えないシャレぐらいにしか聞こえなかった。
産業革命成功のポイントは、圧倒的な技術力、つまりイノベーションと資本とのつながりであると言われている。この二つが互いに補完し合う形で強固なビジネスモデルに発展していった。このモデルがグローバルな展開にまで発展していったのは、通信技術とロジスティックの発達である。東京もこうした条件を整えながら成長をしてきた、産業革命の落とし子とも言える都市なのである。
戦後進んだ「東京スタンダード」
私は地方出身であるが、中学卒業時、多くの同級生が「金の卵」として首都圏の企業に就職していき、その親世代の人たちは、まもなく始まる東京オリンピックに向け、出稼ぎとして首都圏に向かった。この結果、地方には15歳から65歳までのいわゆる「生産者人口」が減り、15歳未満の年少者と65歳以上の高齢者だけが残ることになったのである。
一方、東京は全国の生産者人口を集めて「人口ボーナス」の恩恵を受け、高度成長を突っ走ることになる。当然のことながら地方は従属人口化した「人口オーナス」の典型となっていく。結果論のようだが、現在の地方人口の減少と衰退の萌芽はすでにこの時に始まっていたといえるだろう。
東京を中心とした新幹線や高速道路などのインフラ整備や、テレビ放送、電話網など通信インフラの発達は、地方からのリソースを東京に集めただけでなく、生活様式の変化を伴うビジネスモデルが急速に地方に伝播することにもつながった。こうして企業は地方に工場を建設したり、支店を設立したりしていったのである。製品需給の視点で言えば、都市で開発、試作されていたものが、地方で大規模に製造され、これが都市に入ってきて消費されるという好循環を生んでいったのである。
製造業によって規格化された工業製品が世の中に出回ったことに少し遅れて、サービス業でも規格化・単一化が進んだ。コンビニンスストアという規格店舗は消費者ニーズに合わせた品揃えと営業時間の長さを売りに、瞬く間に地方都市にも広がった。ほぼ時を同じくして、いわば「東京スタンダード」で作られたメニューを持つ飲食店がチェーン展開によって地方に押し寄せてきた。地方発の商品は個々の品質では競えても、品揃え、低価格と手軽さでの競争で立ち向かうことは難しかった。
気が付けば、製造業だけでなく、地方は流通業、サービス業という地域密着型の産業においても「らしさ」を徐々に失い、東京スタンダードによる画一化が進んで行った。新幹線の駅で降りていつも感じることは、駅名の表示がないとどこの駅前なのかがわからないということである。駅前の一番目立つところにある店は、大体、全国チェーンの飲食店やコンビニだ。地方のお店は、路地を少し入ったところに遠慮がちに残っていたりする。駅前の一丁目一番地を押さえるだけの経済力は、地方産業からは失われていったのだろうか。
止まらない地方の衰退
1990年代に入り、日本の製造業はグローバル競争の中で、次第に韓国や中国企業にシェアを奪われるようになる。プラザ合意以降の円高定着と相まって、企業の事業戦略の中で、地方工場はその存在価値を急速に失い始める。企業は生き残るために、地方の工場を閉鎖し生産を海外に移転、それに伴う人員整理にも踏み切った。自分もかつてこのプロセスを進めた一人として、忸怩たる思いは今でも心に重く残っている。
製造業の生産再編に伴う工場閉鎖が地方に与える影響は大きかった。働く場の減少は、消費の低迷につながり、大店法改正による大規模店舗の地方進出も相まって、少なからぬ地方商店が廃業に追い込まれた。商店街にはシャッターが下り、全国チェーンの郊外スーパーに人が集まり、コンビニエンスストアが一日中明かりを灯している。そのような光景が日本中いたるところでみられるようになった。
私と同年代の人には共感していただけると思うのだが、子供の頃、生活必需品は自分の近所の商店街で大体手に入った。特別なものが必要な時だけ、近くの大きな町に買い物に行けばよかった。ところが今田舎に帰ると、昔あった店はほとんどない。生活に必要な品物ですら近所では買えず、自動車で遠くのスーパーまで買いに行かなければならない。時代は進んだのに、生活の便利さは後退しているかのような印象を持つ。
地方の人たちも、東京スタンダードに従うことが自分たちの利益には合致しないかもしれないことに、早いうちから気づいていたように思う。1970年代後半には、「Uターン現象」という言葉も生まれた。それまでは、地方から東京へ勉学に出てそのまま職に就くというコースが就職の王道であったのに、東京の大学を出て地方に帰る若者が増えてきたことを意味するものだった。80年代後半からは、地方や故郷を大切にという言葉が頻繁に語られるようになった。実際に80年代終わりには、国から各市町村に1億円のふるさと創生資金が配られ、それを基金として村おこし、町おこしの活動も盛んに行われた。
その結果、一部地方の産品が全国区となり、いくつかの地域では観光産業の成長につながった。しかし、その試みも多くの自治体では成功に結び付かず、地方経済全体としては、縮小傾向が進んでいった。そしてその後も東京との格差、地方の中での中央組織とローカル組織の格差、地方コミュニティの老齢化と衰退は止まらない。
日本の産業が競争力を持ち、人口も右肩上がりで増えている時代には、東京スタンダードによる経済循環はうまく機能した。しかし、この二つの条件が共に失われた今、この循環は機能不全に陥っているように見える。地方の人たちは、そのことを強く感じているようだ。これまで東京のニーズのままに人を送り出し、生産設備を設け、要求される効率性で製品を作り続けた。その結果、地方はどうなったのか。東京の都合で作られた工場や仕事の場は、いつの間にか減少してしまった。地方の産業は、東京スタンダードに押されて停滞し、復興の兆しは見えない。働く場所は依然として広がらない。労働人口は更に減る一方で、コミュニティは弱体化してしまった。このまま、東京の後を追い続けて、「東京時間」をベースにしたライフスタイルを送ることがよいのだろうか。そう考える人が増えているように思える。
地方の人は残業しない?
昨年のことになるが、インターネットサイトで「なぜ地方の人は残業しないのか」と題する記事を読んだ。筆者は東京でビジネス経験を経て、宮崎県の地方自治体でマーケティング専門官をされている方だった。近時、人件費削減を目的として、IT企業を中心にコールセンターやウェブの管理運用を地方都市に移管する動きが強まっている。しかし、コスト削減は思うように進んでいないと言うのだ。そしてその理由として地方の人は残業をしないため、結果的に計画より社員数が増え、想定していた人件費削減が実現していないからだと分析している。
社員が残業をすることを前提として人員計画を組むのがそもそもおかしいのだが、この方の分析が現実を捉えているとすれば、地方の人は「東京時間」で生活することをよしとしていない、押し付け的な働き方には合わせたくないということになる。この筆者は、地方が東京に比べて残業をしない理由を、地方は物々交換や自給経済、貸し借り経済が成立するコミュニティを持つが、東京にはそのような経済を成立させるコミュニティはなく、ほとんど貨幣経済しか成立していない、この差にあると指摘している。すなわち、地方の人にとっては、貨幣経済の主体である企業より、そのほかの経済の基盤となっているコミュニティの方がより自分の生活にとっては重要だという考え方が成立するというのだ。
私は地方を離れて長いので、いまだ物々交換や貸し借り経済が成立しているかは分らぬが、昔より衰えたとはいえ、東京よりコミュニティの存在が大きいことは容易に想像できる。そのために自分の時間を使いたいと思うのは自然な発想である。経済的な依存を除いても、コミュニティのために使う時間の重要性は、東京感覚ではわからないものだろう。
東京には一部を除いて自然発生的なコミュニティが存在せず、隣近所が助け合うという感覚は少ない。東京に住んでいる人は、困った時には自分で何とかするしかないと思って生きている。コミュニティに対する東京人と地方人の認識差は大きい。
以前このコラムでも書いたが、2011年の東日本大震災後の政府復興構想会議の席上、私は、「東北は首都圏に、江戸期にはコメを送り、明治には兵隊を送り、戦後は金の卵といわれた労働力を送り、今日では膨大な電力を送ってきた。復興の最終的ゴールは、東北が果たしてきたこの片務性を解消することではないか」と述べたが、このことは他の地方と東京との関係にも当てはまるようだ。
地方の人は、「東京時間」、「東京スタンダード」に合わせる生き方を疑問視し始めている。自分たちの時間やコミュニティにもう一度目を向けようとしている。
地方のハンデは少なくなっている
地方の離反で思い出されるのが、英国国民投票でのEU離脱の決定である。中央の動きを追っていたメディアは、離脱は拒否されるだろうと予測していた。離脱決定の一因は地方の人々が、中央の意向にNOを示したことにある。米国のトランプ大統領誕生も、中央政治から距離がある中西部地域での反乱が引き起こした現象とも言われている。日本では、ここまで極端な事態は起きないだろうが、地方の人々の中央に対する不満は少しずつ蓄積されていると見るべきだ。中央が発展し、その恩恵で地方を潤わせるという発想は通じにくくなった。
今後日本経済が一定の成長をすると仮定しても、高度成長期のように地方に生産工場を次々と建てるという状況にはならないだろう。海外に生産を移した企業がそれを戻すことも考えにくい。その一方で、インターネットの普及により、これまで地方のハンデとされてきたことが少しずつ解消している。かつては地方限りの物産だったものが、インターネットによって全国で販売されるようになった。優秀な技術者が、地方に住みながら製品やソフトウェアの開発に携わることが可能となった。女性の労働にとっても、地方で子育てをしながら働くということが、プラスに働く可能性もある。
地方だからと言って、地方に留まることに縛られる必要はない。もっと緩やかに地方と都市との間を行き来できるような環境が望ましい。エッセイストの玉村豊男さんが以前次のようなことを述べていたことを思い出す。人が地方に住みついても、時折町に出かけて町の生活を楽しむ。こうした家のことを「ヴィラ」と呼び、同じような人が集まってくると、それがやがて「ヴィレッジ」になる、というのである。地方の人も都市の人も互いにもっと開かれるべきなのである。都市は地方なくして成立しないし、地方は都市なくして成立しない。
将来は、IoT(モノのインターネット)や人工知能の進化で、東京と地方の事業環境の差は益々縮まるだろう。そうすればコスト面だけでなく、住環境やコミュニティの強さなどで地方が優位性を持つことも増えてくるかもしれない。企業や私たちのような国の研究機関も、将来の地方の姿を見据えて、地方と東京が双務関係に立つ施策や事業戦略を構築すべき時に来ている。
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